夏目漱石・著『こころ』



こころ (新潮文庫)     

小説は三部にわかれています。

 上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書
 
主人公は“私”で、上と中は“私”の一人称で語られますが、下は主人公が“先生”と呼ぶ人物の手紙という形式になっています。
私達読者は“私”の目を通して“先生”というこの物語の真の主人公を観察することになります。
 
主人公はその手紙を、自分の父親の病床で受け取ります。父親は既に意識が混濁して長くて数日という状態です。そこに、“先生”からの遺書ともいうべき手紙が届くのです。主人公は汽車に飛び乗り長い手紙を紐解きます。
そうして第三部「下 先生と遺書」が始まります。
 
主人公と“先生”は、不思議といえば不思議、平凡といえば平凡な出会いをします。明治の人は、赤の他人をこんなにも簡単に寄せ付けるものだったのでしょうか?
 
主人公は卒業を控えた大学生です。“先生”は、主人公の卒業論文の相談に乗るくらいなので、相当に学識のある人物のようですが、仕事は何もしていないようです。夫婦二人で、下女を一人雇って生活しています。
明治時代というのは、山林田畑があれば、とりあえず何もしなくても食べていける階層があったようです。
主人公もそのような階層の出で、田舎から東京に出て遊学中であり、“先生”も似たような出自ですが、両親は既になく、資産は全て換金しているようです。
 
“先生”は不思議な人物です。
識見の豊かさや人当たりの柔和さとは裏腹に、時として洩らす他人への猜疑や、資産や財産に対する即物的現実主義、またひとかどと思われながら無為徒食に身を委ね、そこはかとなく漂う厭世観、主人公の観察を通じて読者の頭の中にいくつもの疑問符が記されてゆきます。
そして第三部の“先生”自身の手紙によって、なぜ“先生”がそのようになったかが判明するのですが、そのときには全てが終わっているのです。
 

下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。又自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切を付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、又意味のないような変な紙に思われた。

 
私達の心の眼を開かせてくれるものは、どうやら学問や卒業証書などではないようです。
もちろん、勉強することや、学校を卒業することが全く無意味だと言うつもりもありません。それは、自分の内面を磨く、ひとつの手段であり、道程だと思うからです。
 
しかし、私達は時に人を裏切り、時に人に裏切られます。これはどういう「こころ」の働きでしょうか?
主人公はこれから世に出ようとしています。
“先生”一人は、「良心に殉じた」と言うことができるかもしれません。
では、良心に従って生きるとき、人は遁世者のような生き方をしなければならないのでしょうか?
私は、夏目漱石が、「こころ」の主人公を“先生”ではなく“私”にしたのは、正邪の有り様を乗り越えた先にある、生活という実体の伴った「こころ」の先行きを、“私”たるべき全ての若者に託したかったからではないか、と思うのです。
そういう意味で、私はこの小説と二十歳前後に出会いたかったと、激しく思いました。

 

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