島崎藤村・著『破戒』


破戒 (新潮文庫)   

破戒――何という悲しい、壮しい思想だろう。

 
主人公は師範学校を卒業して学校の先生をしています。高等小学校の4年を受けもっているということですから、今なら中学くらいでしょうか。
また、師範学校というのは官費で勉強できたようで、年季が明けなければ教員をやめることができない、というようなことが書かれています。
 

見給え、あの容貌を。皮膚といい、骨格といい、別にそんな賤民らしいところが有るとも思われない。

 

もしそれが事実だとすれば、今まで知れずにいる筈も無かろうじゃないか。最早疾に知れていそうなものだ――師範学校に居る時代に、最早知れていそうなものだ。

 
主人公の丑松は被差別部落の出身なのです。しかし、父親の「隠せ」という戒を守って生きてきました。
 
物語は、丑松の下宿から、一人の被差別部落出の人が、その出自を理由に退去させられるところから始まります。
丑松にとっても他人事ではありません。まだ身元が知られていないながらも、心中穏やかではありません。
彼は逃げるようにして下宿を移ります。そのことが後半、疑惑のひとつになるのですが…。
 
被差別部落とはいったいどのようなものであったか、作中であまり詳しく語られることはありません。
ただ、丑松の父親は放牧牛の牧童をしているのですが、牛に角をかけられ亡くなり、その父を殺した牛の殺処分に丑松達が立ち会う場面で、牛を解体する職人達がでてきます。彼らは被差別部落の人達で、その出自を隠している丑松の胸中は複雑です。
 
人は殺生を忌み嫌いながらも、他の生命の犠牲なくしては生きられず、しかして動物の殺生に関わる人々を低く見て蔑んできたのです。
 
丑松はどこにいても心休まることがありません。
 
小説中、被差別部落の人達を「新平民」と呼んでいることに、明治時代のこの差別に対する重層的な欺瞞がよく表れていると思います。
 
丑松が「新平民」であるという噂が、思わぬところから漏出します。
教員仲間でもその話題が話に上ります。
丑松の親友は、そんな馬鹿なことはない、と丑松を庇ってみせるのですが、それが酷い差別意識に基づいたものだと気づきません。
 

新平民か新平民でないかは容貌で解る。それに君、社会からのけものにされているもんだから、性質が非常に僻んでいるサ。まあ、新平民の中から男らしいしっかりした青年なぞの産れようが無い。

 
だから丑松が被差別部落の出身などということはない、というのです。これでは本当のことなど言えるはずもありません。
 
しかし、丑松は本当のことを打ち明ける決心をします。即ち「破戒」です。
 
出自を打ち明けること、それが社会的に抹殺されることを意味する。
丑松の父は、子供の幸福を願い、過去を消し、隠れるようにして山の生活を選び、息子に「隠せ」と戒めを与えた。
息子はそれを一生懸命守る。しかし、隠して生きていたとしても、結局は人が自然に受け入れる楽しみや幸福を、自分には予め禁じられている。そのことに変わりはない。見せかけのアイデンティティーと自我の狭間がそれを教えるのです。
 
そのような内面の苦しみを抱えた丑松は、下宿のおかみさんやその養女、そしてまた、思想家の猪子との接触を通じて、人の営みの根元的な哀しみと、それらの人達のしなやかさを見ます。
 
ただ、丑松の告白の重みは、社会基盤を失うことを意味します。
 
藤村が用意した結末は、丑松の苦悩に付き合ってきてほっとすると同時に、根本的な差別の問題に解答を出していないようなもどかしさが残ります。
 
小説の一遍では解決することのできない深さと複雑さがあるのだと思います。
しかし、この一遍を書くことにこそ、意味があったのではないでしょうか?殊に、「新平民」の如き表現の欺瞞は、小説の中に永久保存する必要があった、今回初めて「新平民」という言葉を知った私には、そう思えました。
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