その街区は都会の中の引き出しの奥のようなところにありました。
表紙を開くと、まず一文書かれています。
目次よりも先です。
小川洋子がクラフト・エヴィング商會をたずねてゆくところのようです。
見れば、その看板には「ないものあります」なる謳い文句。
創業は明治で、「舶来の品および古今東西より仕入れた不思議の品の販売」と謳い文句は続いています。
小川洋子がクラフト・エヴィング商會に何か注文に来たようです。
「じつは、昔、読んだ本に出てきたものなんですが――」
このあと目次が続きます。
5つの話があります。
クラフト・エヴィング商會への注文書と、納品書、そして受領書という形式になっています。
注文書と受領書は小川洋子が、納品書はクラフト・エヴィング商會が書いているようです。
本好きが、表紙から1枚1枚めくって、本作りの人達の凝らしたささやかな意匠も見逃すまいとする、そんな気持ちを大切にすくい取ろうとする姿勢が、表紙から目次を読む間までに伝わってきます。
各話とも源泉とする小説があるようです。
小説を読む、ということは、ないものをあるものとして胸にしまうこと、だとするなら、ひょっとしてその小説にはまだ見つかっていない「ないもの」があるのではないか…?
私のような市井の勤め人が、読書感想文を書いてネット上で発表する時代ですが、本当の「ないもの」が、まだ発見されていないのではないか?
小説を読んで書評を確認して、それでその本を理解した気になっているけど、まだ「ないもの」がどこかに隠れているのではないか、それをこの現実の生活の中で深し続けるのが読書の楽しみなのでは…
小川洋子にそのように言われた気がするのです。
書評やら感想文やらがネット上にあふれている時代に、小説を書くことを生業としている者が、小説について語るとき、本書のような構造が必要になったのでしょうか。
小説を読むということはまた、構造の中に吸い込まれること、小川洋子が吸い込まれた構造の中に、もうひとつ小川洋子が構造を作って、私達をまんまと吸い込んでゆきます。このしてやられた感がなんとも心地よいのです。
小川洋子のしかける虚構の設定に、クラフト・エヴィング商會が即物的に答えを探してきます。
源泉とする小説を入れ子としているのか、既存の小説の中に小川洋子が虚構を入れ子にしているのか、自分が今座っている通勤電車が虚構なのか、虚構の中を通勤電車が走っているのか、読んでいるうちに自信がなくなります。
一服の清涼剤という表現がありますが、この本は通勤読書家にとって一服の幻覚剤と言えるでしょう。行き着いた場所は、昨日と同じ場所でしょうか…?