魯迅・著『阿Q正伝』




故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) 

 

作者は一人の人物を創作します。
当然です。小説ですから。
 
阿Qという主人公です。
阿Qという人物の「正伝 」 であることを第一章で述べています。
 
小説ではなく、一人の人物の評伝という形にしたいようです。

 
従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えられる。
 

しかし、阿Qという人物は偉人でも英雄でもありません。
 
そうかといって、ある社会階層の平均的な人物では全くありません。

 
阿Qは家が無い。未荘の土穀祠の中に住んでいて一定の職業もないが、人に頼まれると日傭取になって、麦をひけと言われれば麦をひき、末を搗けと言われれば末を搗き、船を漕げと言われれば船を漕ぐ
 

どうやら阿Qは社会階層の末端に位置しているようですが、本人にその意識はなく、本人にその意識がないのだから、阿Qはどの階層にも属していない、と言えるでしょう。
 

阿Qはまた大層己惚れが強く、未荘の人などはてんで彼の眼中にない
 

そうして村の者と喧嘩をしては懲らしめられるのですが

 
乃公は自ら軽んじ自ら賤しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ

 
大層おかしな理屈ですが、そのように考えて精神のバランスを保っているようです。
 
私達は、たとえそれが負け惜しみでも、そしてそれが負け惜しみとわかっていても、そのように自分を慰めなければ、外形的な惨めさと内面の自尊心の均衡を保つことはできないのでしょう。
 
阿Qは家もなく社会階層からも外れた男ですが、自由であるかというと、彼ほど社会の習俗や掟に縛られ、身動きの取れない人間はいないのではないでしょうか?
 
まさにそこに、魯迅が阿Qを創出した理由があると思わわます。
 
第四章の「恋愛の悲劇」では、阿Qが下働きをするある富裕な家で働く女に、阿Qが懸想して言いよるのですが、あり得ないこととして阿Qは村民から排斥されます。
やむなく地元を離れ「城内」で働くのですが、少々盗みなどもしたようです。
阿Qは少々の蓄えと盗品の現物を持って地元に帰還します。
すると村の金のある者は、阿Qがなぜそれを持っているか詮索することなく、安く手に入れようと、阿Qと交渉します。
全く現金なものです。
 
第七章では革命が起こります。政治思想などは一切語られません。人々の関心はどちらに付けば自分の財産を守れるか、ということのようです。ですから、それが革命でなく、王朝の交替でもよく、たまたま阿Qの時代にそのような政変があり、そのような政変は富の移転を伴うもので人々はもっぱら自分の財産を失わず、できれば勝ち馬に乗りたいと考えています。
阿Qもまた、ここぞとばかり革命に参加していることを匂わせ、社会に自分の位置を得ようと考えます。
 
阿Qを襲う悲劇は、阿Qの身の内に起因するものではありません。
阿Qは己惚れが強く意味もなく尊大で、愛されるべき善良さもありません。
しかし、だからといってその結果と周囲の反応にも、何か心にザラついた感じを残します。
 
阿Qの中にも、また登場人物のどのー人にも、良心や善良さといったものが感じられません。
皆損得勘定と打算でしか動いていないように見えるのです。
 
世の中をそんな風にしか見れないとしたら寂しいことだと思うのですが、魯迅は、きっとそのことを書きたかったのだと思うのです。
 
人には良心というものがある。しかし、作中にそれを一切描かないことによって、私達の中にある良心に訴えかけているのではないでしようか?
 
阿Qは言わば人間の負の側面。阿Qを追い込んだものもまた。
人間はそのように負のスパイラルにはまり込んでゆくものなのか。
この小説に希望は一切ありません。しかし、今なおこうして読み継がれていることが、魯迅が作中に描かなかった、人間の希望の小さな証しではないかと思うのです。

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