泉鏡花・著『高野聖』




高野聖 (集英社文庫) 

 

高野聖とは高野山で修業する僧のことのようです。本物語はそのような僧が語る怪奇譚です。

物語は僧が旅の宿で「わたし」に飛騨の山越えの体験を語るという体裁になっています。

このような入れ子構造は、ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』にも見られ、物語に臨場感を与えて読む者を引き込みます。

「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をからげて、表紙を附けた折本になってるのを引っ張り出した」

本文は僧の語りから入ります。“参謀本部”というのは2014年現在としては「昔の話」的ですが、本書が書かれた当時は現代的な意味合いを持っていたと思われます。
つまり、この話は昔々の物語ではないのです。

この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今タ敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。

地の文は「わたし」の独白です。文章に無駄がありません。読手は緊張を強いられます。

道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知っている限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。

どういうことなのでしょうか…?今だに私にはこの一文の意味がわからないのです。
僧は既に俗世の人間ではなくなっているのでしょうか…?

新幹線や航空機が長距離の移動手段となった現代では、旅の道連れというのもできにくいのですが、 「わたし」は敦賀に向かう列車の中で僧と懇意になり、宿も同室となります。蒸気機関車の頃の旅の道程はさぞかし長かったことでしょう。今ではほぼ考えられないことです。

旅の宿で寝付かれない「わたし」に、僧がかつて経験した飛騨から信州に抜ける山越えの話をします。

蛇やヒルのうようよする、森の深い山の裏道を抜け、きれいな流れのあるところに僧は辿り着きます。
山道に入る前に出会った富山の薬売りを追いかけてきたはずなのに、既にどこにも見当たりません。
そこで馬のいななきを耳にします。山家の一軒家があったのです。

その家には美しい婦人と奇妙な男が住んでいました。
馬は馬子に連れられ売られてゆくところでしたが、実はこの馬は富山の薬売りが変化させられたものだと僧はあとで知らされるのです。

それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫りの花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい

魑魅魍魎が蠢く山の一軒家、僧が過す甘美にして奇怪な一夜が描かれます。
果たして僧は人のままでいられたのか…?

「わたし」との会話は列車の中であったり宿屋だったりして、どこか乾いた印象を与えますが、山や森や滝などの僧が語る情景は、一気に湿気を含むようで、更には官能的で、文章が皮膚に張り付くようです。

修業の僧だから人間を失わなかったのか、それとももっと違うものとなったのか…?
私達は皮膚の下に動物を潜ませているのかもしれません。
山家の女はそれを解放させるだけ…。

僧は山家の一夜で何かを失い何かを得たのかもしれません。その何かはとても人間的で、かつまた非人間的なものであったのかも…。修業というものがまた、人間的欲求であって、非人間的行為なのだから…。

怪奇譚というのは、ひょっとしたら構造を読む楽しみであるかもしれません。

どんなに冷静に展開とオチを想像しながら読んでいても、背筋にぞくりと冷たいものを感じたとき、そのしてやられた感が、なんとも心地良かったりするのです。

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