芥川龍之介・著『地獄変』




地獄変・偸盗 (新潮文庫) 

 

良心について書かれています。
否、書かれていないのです。
 
人が鬼ともなりうることを描くことで、人が人であることを描こうとした、私はそう読みたいのです。
 
人は醜く愚かで残虐です。
ヒューマニズムを描くために、人間の素晴らしさを描く、それはそれで良いのでしょう。しかしそれでは人間性の全てを描いたことになりません。
 
作中、猿が登場します。
主な登場人物は、堀川の大殿様、画師の良秀、良秀の娘です。
猿は良秀の娘になついています。
しかし、堀川の大殿様も良秀も、猿以下の人間、否、猿以上の畜生です。
 
画師である良秀は、高貴で豪壮な方である堀川の大殿様から地獄変を描いた屏風の製作を命ぜられます。
 
良秀は
 

その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師

 
でしたが
 

私は総じて、見たものでなければ描けませぬ

 
という画師です。
 
地獄変を描くにあたり、弟子を鎖で縛り上げたり、猛禽に襲わせるなどして地獄の様相を描いてゆきます。
 
堀川の大殿様は

 
では、地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな

 
ということで、良秀の前に恐るべき地獄の有様を設定します。
 
この小説は、堀川の大殿様に仕える家来の独白による一人称小説となっています。
ですので、堀川の大殿様、良秀、良秀の娘、そして猿、主要な登場人物の内面の動きは描かれません。
独白をする家来はただ語るだけなので、果たして主人公は誰なのか、極めて曖昧となっています。
 
これは、堀川の大殿様、良秀、良秀の娘、そして猿、それぞれに読み手の主観を当てることで、それぞれに違うことを読みとることができる構造となってます。
 
私は、この小説の主人公は、堀川の大殿様だと思いました。
堀川の大殿様の無慈悲さ、残虐さ、無反省、無回顧、そして傍観者性、地獄とはそのような人間の様相を言うのであって、決して空想の世界ではない。現世にこそ地獄はある。
 
この世に地獄があるとして、それを描くためには地獄に足を入れねばならない。
人の内にある地獄の様相を無視して人は描けない。描いたことにならない。
 
良秀は娘を見殺しにします。見殺しにするだけでなく、自分の絵のために利用します。
堀川の大殿様も良秀も、鬼畜以下です。しかし、二人の大きな違いは、最後の良心のひとかけらなのだと思います。
良秀の酷薄さは、人の営みの全てを描出しようという目的があります。
しかし、堀川の大殿様にあるのは単なる愉悦感に過ぎません。
そんな堀川の大殿様でも、
 

良秀の心に交々往来する恐れと悲しみと驚き

 
を前にして
 

喉の渇いた獣のように喘ぎつづけて

 
いるほかないのです。
だからこそ、私はこの作品が地獄とは正反対のものを描こうとしたと思うのです。

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