三島由紀夫・著『潮騒』

潮騒 (新潮文庫)   

結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかった

 
この小説は、平たく言ってしまえば、まだ少年少女と言ってよい若い男女の恋愛の物語です。
また、一人の少年のイニシェーション小説と言っても間違いはありません。
しかし、私は違和感を覚えるのです。
なぜでしょうか?
 

黒目がちな目はよく澄んでいたが、それは海を職場とする者の海からの賜物で、決して知的な澄み方ではなかった。彼の学校における成績はひどく悪かったのである。

 

新治はすこしも物を考えない少年だった

 
主人公の少年新治は、18歳です。歌島という島で母と弟と暮らし、漁師をしています。父親は戦時中、海上で米軍機の機銃掃射を受け亡くなっています。
 

歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である

 
その歌島のもっとも美しい場所のひとつとして八代神社という神社について冒頭作者は語ります。
 

八代神社には六十六面の銅鏡の宝があった。

 

鏡の裏面に彫られた鹿や栗鼠たちは、遠い昔、波斯の森のなかから、永い陸路や、八重の潮路をたどって、世界の半ばを旅して来て、今この島に、住みならえているのであった。

 
話の進みゆきに神話性を感じさせます。
 
歌島は周囲を海に囲まれているわけですが、島の生活は充足しています。かといって孤絶いているわけではなく、連絡船が通い、出てゆこくとも、帰ってくることも可能です。
そんな島で、母親の海女による生計は決して楽ではありませんでしたが、主人公はたくましく美しい青年へと成長し、漁師をして生計を助けています。
 

新治のまわりには広大な海があったが、別に根も葉もない海外雄飛の夢に憧れたりすることはなかった。

 
そんな島に一人の少女がやってきます。
偏屈だが一代で財を成し、島の人達から一目置かれている照爺の末娘初江です。外に養女に出されていたのが呼び戻されたのです。
美しい少年と少女は、いともたやすく恋に落ちます。
 
島では、初江が村の有力者の息子である安夫と結婚するという噂がまことしやかに囁かれますが、新治と初江は既に気持ちを確かめ合っています。
やがて安夫によって二人の関係が人々に知られるようになりますが、照爺は二人の交際を認めません。
そして、安夫ともども新治は照爺の所有する貨物船に、修行に出されます。
 
この小説は決して長くはないのですが、新治と初江の恋愛だけでなく、米軍機により民間の船舶が機銃掃射を受けたこと、沖縄へ税関の許可を受けてゆくことなどが描かれ、また、弟が修学旅行から帰ってきて、島の日常に戻るさまなど、短いながらも読み応えのある内容です。
 
もしこの小説が、遠い島の神括的な恋愛譚としてのみ描かれたとしたら、かなり平板なものとなったと思います。
その島は、遠い昔日のペルシャとも繋がっていれば、現代日本のどこの港と結ばれている。そんな島に、原初を思わせる一対の男女を置いて歴史を新たに始めることが、作者の目論見だったのではないでしょうか?
 

彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。

 
新治には内省というべきものはありません。しかし、彼は経験を頼りに知ってゆくことはできるのです。
新治は、神の加護を感じながらも、自分の体を使って自分の意志を自分の意志より先か同時に行動で表現することができるのではないでしょうか?
そうやって自分の可能性をたぐりよせることができる、照爺によって企てられた修業によって新治はそのように確信したのだと思います。
 
普通、イニシエーション小説では、ナイ一ブな若者が人生の深みを垣間見て、自己の内面の扉を開いて自律するさまが描かれます。
しかし、この小説において、主人公は事の前後でやはり内省を持たないのです。
それが私が抱いた違和感です。
 
そうかといって、他律的なわけではなく、主人公は信ずるものが自分の内にあり、自分を加護するものが自分の外にあることを知るのです。
誠実な純朴さこそ、美しい人生の第一義と作者が言っているように思えます。
私達はそのように生きられるでしょうか?
 
身体表現としての生の美しさにあふれた小説です。
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保坂和志・著『未明の闘争』

未明の闘争    
よくわからない小説でした。
 

私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。

 
小説の冒頭から意味が通りません。
 
分厚い本とタイトルに読みごたえを期待して買って帰ると、この一文につまずきます。
それでも、長い小説なのだし、細部には取り敢えずこだわらないことにして読み進めます。
しかし、なかなか物語的な展開が始まりません。いくつもの挿話が唐突に始まります。
結果を言えば、最後まで、主人公の独白と思われる思惟の変遷を変遷するがままに連らねて終わります。
否、最後は友達の話としてその挿話自体、或いはその記憶が誰のものかわからなくなるのです。
 
小説が、人の生を切り取って提示するものだとして、私達の人生は小説的に仕組まれていることなど何もありません。
小説において登場人物は何らかの役割を担って書き込まれますが、実人生においては、ある存在が他の存在に影響を与えるのは、ほとんどの場合偶然なのです。
私達はその偶然に意味を読み取ろうとし、そこにドラマ性を感じたりするにすぎません。
 
主人公は女性と横浜の公園にいます。作者はその公園を鳥瞰するように細部を描きます。主人公の注意の範囲外まで描いているようです。
今ここに存在している私という存在が、同時にここに存在しているまったく無関係の人々に、何も影響していないとは言えないし、影響されてないとは言えない。作者はそう言っているように思えます。
同時性だけではありません。当然のことながら、自分という存在は過去とつながっています。それはつまり、他人の過去にも現在の自分が影響を受けていることになります。
 
自分という確固たるものを持っているようで、実際には、私達は自分と思っているものの中には自分の存在と認められるようなものは何もないのかもしれません。
 
主人公の友達が餌付けをしている野良猫一家の話が最後は続きます。
もし私が、確固たる自分を持っていないとしたら、私は、果たして猫と一緒でしょうか。
或いはそうかもしれません。
友達の餌に頼って生きる猫も、猫に餌を与える友達も、お互いの中に生きているのではないでしょうか?
猫との関係においても、人との関係においても、私達が生きるということは、畢竟、誰かの中に生きてゆくこと、にほかならない。
 
篠島という人は、最初から最後まで、9年前に死んだ人としてその名前が出てくるばかりです。
篠島さんはそのように記憶されているかぎり、死んではいないのかもしれません。
少なくともこの小説では重要な登場人物になっています。
主人公が過去に飼った犬や猫も沢山登場します。それはつまり、日常のほんの些細なことから、ふと過去の記憶が、直接今していることとは何の脈絡もなく思い出されることは結構よくあり、そうであれば意識的にも無意識的にもに私達は過去の記憶から現在の行動に影響を受けており、過去に飼った犬や猫が今の私として生きている、そう考えてもよいのではないか。
 
私達は小説に自分の人生を理路整然と説明してもらうことを求めていますが、私達の人生はそれほど理路整然としたものではありません。
重要な会議中に、昔飼った犬のことを思い出したりするのです。これを不謹慎と言えるでしょうか?
私達の思惟は、まったく意味不明の文法によって記述されているような気がします。
この小説にはところどころ文法的におかしな文章がでてきます。だけどそれは、そこを書き直してしまったのでは、思惟の始まったその時点での意味が損なわれてしまう、そのように作者は考え、敢えて残しているのではないでしょうか?
思惟の最初と最後でその意図したところが変わっている、私達の思索にはよくあることではないでしょうか?
或いは思索の段階ではいくらでも文法的な間違いをしているし、思索の段階ではそれをいちいち訂正することなどしない。
この小説はそのような思惟を、一筆書きのように記述したのではないでしょうか?
 
主人公の星川という人間を描くのに紙数が足りているのかどうかわかりません。
しかしこのわかりにくさは、人間存在の単純な複雑さを知るためには充分であったと思います。
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川端康成・著『雪国』

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))    
国境の長いトンネルを越えたら、普通は1人の青年の魂の遍歴とか、心の成長の物語を期待するものです。
 
川端康成の『雪国』に、それはありません。
 

夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 
わずか1行で、動きを止めてしまうのです。
わずか1行に、そこに書かれていない全てを凝縮し、トンネルの先の、夜の底の白い世界に私達を引き込みます。もはや出口はなさそうです。
 
小説は、主人公の島村が、温泉町の芸者駒子に会いにゆくその汽車の車中から始まります。その車中で、病気の男を看病する女性のことが、島村は気にかかります。
島村と駒子は男女の仲です。
あとでわかるのですが、病気の男は駒子の許嫁のようで、看病していたのは葉子という女性です。
 
島村が駒子と出会い、関係を結んだのが5月、そして“今”は雪の季節です。
 
島村は、親の財産を食いつぶして生きているようですが、妻と子があります。
島村と、駒子と葉子という二人の対象的な女性とのかかわりから、そこはかとなく生のゆらぎを感じさせます。
 
この小説には、確固たる物語の起伏はありません。
 
山に囲まれた温泉町に女が二人。
一人は、許婚ではないといいながら、その男のために芸者になります。
一人はその男を献身的に看病します。
前者は、現実をあるがままに受け入れ、生命力のままに生きてゆく、そんな感じです。
後者は、慎ましさの影に、山に囲まれたこの生活からの逃避への希望を抱いています。
 
そこに1人の男、つまりは島村が、山の外から現れ、二人の女の生き方を対照するのです。更には、島村という男の、なんとも頼りない生をも。
 
山に囲まれ雪の下に沈む街に出口などないのです。男と女の関係とはそういうものかもしれません。
駒子はそれを理解したうえで何も望まないし、葉子は逆に敢えてその先を望んだのだと思います。例えゆき着く先は同じでも。
最後のシーンは、作家の葉子に対する、或いは葉子的な生き方に対する優しさではないかと思うのです。
 
物語全体から見れば、これは島村と駒子の恋愛事情と言えるかもしれません。しかし、私にはこの小説は葉子のはかなく切ない生を描くための小説ではないかと思えるのです。
 
この小説は、大事なところを思いっきり省略します。
例えば、島村の言葉を駒子が聞き間違えるシーンでは、何をどう聞き間違えたのか、説明されません。
 

駒子の聞き間違えで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだった

 
聞き間違えた事実だけがあって、その結果だけを島村は噛みしめるのです。
 
この小説の中で一番の省略は、やはり葉子なのだと思います。
そしてそれは、駒子のたくましさといじらしさが密度濃く描かれれば描かれるほど、私達におぼろげなその姿をおぼろげなままに却って印象深く刻み付けるのではないでしょうか。
それはあたかも、冒頭の汽車の窓の外の景色と中の景色との二重写しのように。
 
最後の最後まで島村は傍観者的です。山に囲まれた温泉町では外部の人間ですから当然といえば当然ですが、彼は、自分の人生そのものにも、どこか傍観者的です。
そんな彼が、火事の夜に受け取ったものは何だったのでしょうか?外に出てゆきたがった葉子の生のきらめきを受けとり、実生活に根を張って生きてゆくのでしようか、それとも虚しい生を、さらにも先鋭化させてゆくのでしょうか?
この結末こそ、作家が用意した最大の省略かもしれません。
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