結局一つの道徳の中でかれらは自由であり、神々の加護は一度でもかれらの身を離れたためしはなかった
また、一人の少年のイニシェーション小説と言っても間違いはありません。
しかし、私は違和感を覚えるのです。
なぜでしょうか?
黒目がちな目はよく澄んでいたが、それは海を職場とする者の海からの賜物で、決して知的な澄み方ではなかった。彼の学校における成績はひどく悪かったのである。
新治はすこしも物を考えない少年だった
歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である
八代神社には六十六面の銅鏡の宝があった。
鏡の裏面に彫られた鹿や栗鼠たちは、遠い昔、波斯の森のなかから、永い陸路や、八重の潮路をたどって、世界の半ばを旅して来て、今この島に、住みならえているのであった。
そんな島で、母親の海女による生計は決して楽ではありませんでしたが、主人公はたくましく美しい青年へと成長し、漁師をして生計を助けています。
新治のまわりには広大な海があったが、別に根も葉もない海外雄飛の夢に憧れたりすることはなかった。
偏屈だが一代で財を成し、島の人達から一目置かれている照爺の末娘初江です。外に養女に出されていたのが呼び戻されたのです。
美しい少年と少女は、いともたやすく恋に落ちます。
やがて安夫によって二人の関係が人々に知られるようになりますが、照爺は二人の交際を認めません。
そして、安夫ともども新治は照爺の所有する貨物船に、修行に出されます。
その島は、遠い昔日のペルシャとも繋がっていれば、現代日本のどこの港と結ばれている。そんな島に、原初を思わせる一対の男女を置いて歴史を新たに始めることが、作者の目論見だったのではないでしょうか?
彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。
新治は、神の加護を感じながらも、自分の体を使って自分の意志を自分の意志より先か同時に行動で表現することができるのではないでしょうか?
そうやって自分の可能性をたぐりよせることができる、照爺によって企てられた修業によって新治はそのように確信したのだと思います。
しかし、この小説において、主人公は事の前後でやはり内省を持たないのです。
それが私が抱いた違和感です。
誠実な純朴さこそ、美しい人生の第一義と作者が言っているように思えます。
私達はそのように生きられるでしょうか?