保坂和志・著『未明の闘争』

未明の闘争    
よくわからない小説でした。
 

私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。

 
小説の冒頭から意味が通りません。
 
分厚い本とタイトルに読みごたえを期待して買って帰ると、この一文につまずきます。
それでも、長い小説なのだし、細部には取り敢えずこだわらないことにして読み進めます。
しかし、なかなか物語的な展開が始まりません。いくつもの挿話が唐突に始まります。
結果を言えば、最後まで、主人公の独白と思われる思惟の変遷を変遷するがままに連らねて終わります。
否、最後は友達の話としてその挿話自体、或いはその記憶が誰のものかわからなくなるのです。
 
小説が、人の生を切り取って提示するものだとして、私達の人生は小説的に仕組まれていることなど何もありません。
小説において登場人物は何らかの役割を担って書き込まれますが、実人生においては、ある存在が他の存在に影響を与えるのは、ほとんどの場合偶然なのです。
私達はその偶然に意味を読み取ろうとし、そこにドラマ性を感じたりするにすぎません。
 
主人公は女性と横浜の公園にいます。作者はその公園を鳥瞰するように細部を描きます。主人公の注意の範囲外まで描いているようです。
今ここに存在している私という存在が、同時にここに存在しているまったく無関係の人々に、何も影響していないとは言えないし、影響されてないとは言えない。作者はそう言っているように思えます。
同時性だけではありません。当然のことながら、自分という存在は過去とつながっています。それはつまり、他人の過去にも現在の自分が影響を受けていることになります。
 
自分という確固たるものを持っているようで、実際には、私達は自分と思っているものの中には自分の存在と認められるようなものは何もないのかもしれません。
 
主人公の友達が餌付けをしている野良猫一家の話が最後は続きます。
もし私が、確固たる自分を持っていないとしたら、私は、果たして猫と一緒でしょうか。
或いはそうかもしれません。
友達の餌に頼って生きる猫も、猫に餌を与える友達も、お互いの中に生きているのではないでしょうか?
猫との関係においても、人との関係においても、私達が生きるということは、畢竟、誰かの中に生きてゆくこと、にほかならない。
 
篠島という人は、最初から最後まで、9年前に死んだ人としてその名前が出てくるばかりです。
篠島さんはそのように記憶されているかぎり、死んではいないのかもしれません。
少なくともこの小説では重要な登場人物になっています。
主人公が過去に飼った犬や猫も沢山登場します。それはつまり、日常のほんの些細なことから、ふと過去の記憶が、直接今していることとは何の脈絡もなく思い出されることは結構よくあり、そうであれば意識的にも無意識的にもに私達は過去の記憶から現在の行動に影響を受けており、過去に飼った犬や猫が今の私として生きている、そう考えてもよいのではないか。
 
私達は小説に自分の人生を理路整然と説明してもらうことを求めていますが、私達の人生はそれほど理路整然としたものではありません。
重要な会議中に、昔飼った犬のことを思い出したりするのです。これを不謹慎と言えるでしょうか?
私達の思惟は、まったく意味不明の文法によって記述されているような気がします。
この小説にはところどころ文法的におかしな文章がでてきます。だけどそれは、そこを書き直してしまったのでは、思惟の始まったその時点での意味が損なわれてしまう、そのように作者は考え、敢えて残しているのではないでしょうか?
思惟の最初と最後でその意図したところが変わっている、私達の思索にはよくあることではないでしょうか?
或いは思索の段階ではいくらでも文法的な間違いをしているし、思索の段階ではそれをいちいち訂正することなどしない。
この小説はそのような思惟を、一筆書きのように記述したのではないでしょうか?
 
主人公の星川という人間を描くのに紙数が足りているのかどうかわかりません。
しかしこのわかりにくさは、人間存在の単純な複雑さを知るためには充分であったと思います。
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