桐野夏生・著『だから荒野』



だから荒野     

主人公は46歳の専業主婦です。
夫と二人の子供がいます。子供は二人とも男の子で、上の子は大学生、下の子は私立の高校に通っています。
 
主人公がパートに出る経済的な理由は無いようですから、比較的恵まれた家庭の主婦、ということに世間的にはなるのではないでしょうか。
 
しかし、作者はこの家庭から荒野を描いてゆきます。
 

夫も息子も、一切家事なんか手伝わない癖に、図体ばかりでかくて邪魔で仕方がない。その上、口を開けば文句しか言わない。

 
主人公は、46歳の誕生日に家出をします。
予め計画を練っていたわけではありません。
 
ロードムービーのようですが46歳の主婦というのは斬新です。
 

誕生日が実は虚しい日だと、歳を取るごとに感じられるのは寂しかった。
せめて、家族の誰かが「おめでとう」と言ってくれたら、少しは明るくなれるのに、あいにく森村家には、そんな優しい人間は一人もいない。

 
そこで主人公は、家族をせき立てて自分の誕生日のディナ一を計画したのですが、下の子はゲ一ムにはまっていてついて来ず、夫と長男には車の運転をさせられ、ネットで選んだレストランは夫に酷評され、全てがうまくいきません。
夫や子供の、悪意はないが酷い仕打ちに業を煮やし主人公は、1人レストランを出、車でそのまま家出してしまいます。
 
こういう話では、例えば子供が二人いたら、どちらかができた息子で母親に理解を示して支援してくれるとか、女友達が助けてくれるとか、道中知りあった誰彼が力になったり人情に触れて自分を見つめ直すきっかけになるとか、そんな展開が透けて見えてきそうですが、そういうカタルシスは一切ありません。
 
主人公は車で高速道路に乗り、結婚する前に付き合った彼がいるという理由で長崎を目指します。その途上、イタイ目にあったりするのですが、どの人も、まったくの悪人というのではなさそうです。
 
友達や家族もそうなのですが、完全に自分の意に沿う行動をしてくれる人などいないのです。だからといって、期待したところが得られないからといって相手を責めるのは筋違いです。
ましてや赤の他人ともなれば、騙しもすれば、もともと期待に応える気などなくて当然でしょう。
 
私達は自分の中に善なるものを認め、他者にもそれを求め、そのようにして世の中ができている、そのように期待しがちです。果たしてそういう面もあるかもしれません。しかしそれは一面であって本質ではありません。
 
私達は荒野を生きているのです。
 
主人公は長崎で原爆の語り部をする老人と出会います。
 

長崎は、広島とは違う種類の原爆を落とされたのですよ。

 

私達は、人体実験されたのではありますまいか。

 
原爆の開発があった。2つできた。なら2つ落としてみよう。なんと無邪気な発想でしょう。その発想の無邪気さと結果は、あまりにもかけ離れすぎていて私達はそれを結びつけて考えることができません。
私達が生きる世界、というとあまりに尊大な言い方になってしまいますが、自分の生活を荒野にしてしまっているのは、結果に対する無責任さ、或いは想像力の欠如から来る発想の短絡さにあるのではないでしょうか。
 

あなたの使命はあなたが探すしかない。誰もが自分で探すのです。

 
主人公は家に戻ります。家庭も荒野、外も荒野。しかし、戻った家庭は元の荒野ではありません。それは荒野として自分が選び取った場所だからです。
沃野にいて心を荒ませるのではなく、荒野を沃野に変えてゆく自分を、主人公は旅から得たのだと思います。
 
この小説は、章ごとに主人公が妻と夫とで入れ変わります。
 
夫のダメっぷり、ダメ家族っぷりばかり印象に残ってしまうのは、やはリ私もダメ夫だからでしょうか…。


 
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