梶井基次郎・著『檸檬』




檸檬 (新潮文庫)   

大変短い小説ですが、私が若い頃、もう30年ほど昔ですが、文学好きを自認する、殊に若い女性には、 既にその頃でさえ作品の発表から50年ほど経っていたはずですが、 根強い人気があったように思います。
というよりは、梶井基次郎の『檸檬』が好きだということを公言することによって、何か特別な、フツーの範疇からは少し外れるかギリギリ周縁の、しかも少しタカミにいる人、という印象を周囲の人に与えていたように思います。
 
そんな作品があれば、今ならなんの衒いもなく手に取ることができると思うのですが、20歳前後の私にはそれが出来ませんでした。
 
今この作品が、どの程度、そしてどのように読まれているかわかりません。しかし、時代が変わっても20歳前後の若者の鬱屈にあまり変りはないと思います。
ただ、環境が変わって、若者の気質を表現する媒体が増えているので、 敢えて檸檬を手にする必要はなくなっているかもしれません。
また、そうした鬱屈、或いは憂鬱な気分は、インテリ学生の特権的なところがあり、どうも私が『檸檬』に近付かなかったのはそんな衒学的なところが理由だったような気がするのです。
 
『檸檬』を口にして特別な雰囲気を醸すのも自意識過剰なら、食わず嫌いをするのもまた自意識過剰と言えるでしょう。
 
今では大学生をインテリと言う人もないでしょうけど…。
 

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。

 
冒頭の一文で若者が抱く焦燥感、嫌悪感を作者は表現します。
 
その不吉な塊によって
 

以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。

 
重症です。
インテリでない若者は、ふつうそのような塊を振り払ったり、気持ちを紛らしたり、或いは慰めたりするために詩や音楽に親しむのですが、主人公は親しむべき美がないというのです。
 
この主人公は、安易な自己欺瞞さえも嫌悪しているようです。
 
それは、過剰な自意識によるものとばかりは言えないようです。
 

察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。

 
いきなり「察しはつくだろうが」というところに自虐的衒学趣味の幼さを感じるのですが、主人公はお金に困っているようです。
以前には「丸善」という店で本や文房具や雑貨を買っていたようなので、この貧乏は最近発生した状況で、相当厳しいようです。
実人生の入口が生活苦であるという現実が、詩歌に耽溺できていた自己の内面とぶつかります。
それまで楽しみとしていたものに親しめなくなるわけです。
 
主人公は、卑小なもの、些末なもの、うらぶれたものに慰めを感じ、一軒の八百屋で檸檬を手に取ります。
 

始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来た

 
どういった心の変化でしょうか。
 

つまりはこの重さなんだな

 
意味がわかりません。
この不確かさこそが、檸檬の意味するところであり、不思議系インテリ少女達を魅了してきたところでしょうか。
 

何がさて私は幸福だったのだ。

 
結構なことだと思います。檸檬愛好家が集えば、恐らく檸檬談義に花が咲くことでしょう。
 
主人公はこの後、足が遠ざかっていた丸善に、檸檬を手にして幸福感に包まれたまま向かいます。
そこで大胆な行動に出るのですが、大胆といっても、レモン1個分の大胆さです。
 
恐らくそれは、檸檬1個分で充分だったのだと思います。
揺籃から這い出ようとする若者の焦燥感、嫌悪感、不安感、そういうものを一個に集めて檸檬は充分に大きく、重く、十全な形だったのだと思います。
自分の内面を圧する不快な塊を、檸檬によって客観化し、 それを丸善に置き去りにすることで 、平たく言えば社会と折り合いをつけた、つけ得る予感を得た、のではないでしょうか。
 
しかしそれにしても、今どこかの本屋でこの主人公と同じことをしたら、防犯カメラの映像から本人が特定され、所属の大学が謝罪の記者会見を開く、なんてことになりかねません。
若者の迷惑行為を擁護するつもりはありませんが、私達は1個の檸檬を持て余してはいないでしょうか。
もしそうだとするなら、それは大人にとっても若者にとっても不幸なことですが、だからこそ、丸善に置き去りにされた檸檬はその芳香を新たな意味をもって放ち続けるのではないでしょうか。

 
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