岩城けい・著『さようなら、オレンジ』



さようなら、オレンジ (単行本)     


私は物語も伴ばを過ぎるまで、本書が翻訳だと思っていました。
 
表紙の、オレンジ色の光を浴びて水辺に佇む黒人女性と思われる人の後ろ姿が目を惹きます。
ちょうど背中にあたる部分にタイトルが白抜きで書かれています。
とてもインパクトがあります。
 
帯に「小川洋子」の一言が書かれています。
 
本を選ぶとき、意識して帯は見ないようにしています。
帯がその小説の中味を正しく伝えていることは少なく、大概帯には「いい意味で騙される」ことが多いのですが、いい意味だからと言って人を騙していいわけではありません。
読後感が良ければ良いほど帯の残念さ加減には腹が立つことが多いです。
 
小川洋子が名前を出しているから、多分いい本だろう。
表紙のインパクトと小川洋子の名前で買うことに決めました。
 
表紙がどうやら黒人のようで、最初に登場する主人公も黒人女性で、場所も外国のようですから、私はてっきり外国小説の翻訳だと思って読んでいました。
 

サリマが追い立てられるようにしてここにやってきてから、しばらくになる。

 

あちらでは人々がいがみ合い殺し合っていた

 
主人公はサリマという女性です。内戦を逃れアフリカからオーストラリアに難民として受け入れられました。子供が二人ありますが、夫は仕事を辞め、家族を捨ててどこかへ行ってしまいます。
小説は、夫が辞めたスーパーマーケットの精肉部門でサリマが働き出すところから始まります。
 

それが人種のるつぼといわれる場所であったら、肌の色や言葉の違いでこれほど苦しむことはなかった。

 
内戦のせいもあって、サリマは充分な教育を受けてきませんでした。内戦のせいだけでなく、サリマの育ったのは男尊女卑の環境だったようです。
夫から常にバカにされ、おおよそサリマは自尊心とは遠い存在のようです。
 
サリマ夫婦同様に、他の難民達も働くのですが、サリマ夫婦同様に、夫がまず辞め女達が働きに出ます。
 
仕事も覚束無い言葉もわからない、そんな環境では、自尊心が邪魔をして男達を大切な義務から逃避させてしまうようです。
 
この小説はきっちリ章分けをしてはいません。しかし、途中途中で、「ジョ一ンズ先生」という人に宛てた手紙が唐突に挿入され、それが章分けの役割を果たしています。
手紙を書いている主のことも、ジョーンズ先生が何者なのかも、小説の中で詳しく説明されることはありません。
しかしこの手紙は、ちょうどシ一ルや絆創膏のライナーのように、この小説が私達の心にぴったり貼られる手助けをしてくれます。
不思議な構成の小説です。
 
サリマは職業訓練学校で英語を学ぶことを決意します。
生き、生活するための言語として、英語を学ぶのです。
それは、そこで生きてゆこうという決意そのもののようです。
 

夫は女はバカだバカだと言い続けた

 

だから自分のことをバカだバカだと思い込んでいたけれど、いまは肉だって魚だってきれいに捌ける。

 
生活のために働きだしたサリマは、自分の人生を初めて自分で歩みだしたのです。
 

いままで知っている苦しみはおそらく、自分がいかに駄目な人間かと思い知ることだったけれど、そんな自分にいつまでも馴染めなかった。

 
英語の教室には英語を母語としない人達が集まっています。
そこでサリマは二人の女性と知りあいます。
1人は地元の男性と結婚して30年になるイタリア人女性、サリマはオリーブと名付けます。
もう1人は大学で研究をする夫に従って当地に来た日本人女性。ハネリズミと名付けます。
サリマを含めたこの3人がこの物語の主要な登場人物です。
 
他に教室には北欧から来た女子学生らがいます。
サリマは彼女らの雑談に耳を傾けます。
彼女らの会話は、どこへ行って何をする、どこで何を買う、そんな他愛のない会話です。
しかし、故郷を焼け出されてここに辿り着き、生活のために必死に働くサリマには別世界に感じます。
 

xxに行けば、OOが手に入る。そんな単純なことが話題になって女たちを喜ばせているのに、サリマのxxはほど遠く、OOは雲のようにつかみどころのないまぼろしに思えた。

 
サリマにはまた、オリ一ブやハリネズミが英語の教室に来る意味にも疑問を覚えます。
 

xxに行けば、OOが手に入るという掟にそむいて、お金や時間で解決できないなにかを求めているように思えた。

 
英語はおろか母語の読み書きすら覚束無いサリマは、自分の子供達にすらバカにされます。
子供達のために働き、その子供達にバカにされ尊厳を傷付けられるのです。
 
この物語は、端的に言ってしまえば、第二言語獲得の過程において人間としての尊厳を得、自立への第1歩を踏み出す女性の物語なのですが、サリマが得たものは、生きる意志そのものではなかったでしょうか。
或いは、意志をもって生きる、生きられる人生そのものを手に入れたのだと思います。
 
普通に母語を操って生きていてさえ、意識的に自分の意志で生きることというのは、案外できていないのかもしれません。
私達はそれを、環境や制度のせいにして、結局は自分自信を否定してしまっているのではないでしょうか。
 
サリマは過去を否定しません。あのときこうすればよかった、という思考回路がないようです。それができる環境、即ち選択の余地がなかった、と言えばそれまでですが、そのような環境についても恨みごとを言ったりせず、また、不公平を叫ぶこともしません。
 

行動が先で結果はそのあとからついてくるものなのだと理解するには、まず労働することを体に覚え込ませなければならなかった。労働で鍛え上げられたいまのサリマならわかる。自分で立ち上がるしかないのだ。

 
この小説は、サリマの物語と平行して、手紙の主の物語が存在します。
私はこの小説を翻訳小説だと思って読んでいたのですが、それも無理からぬことだったのです。サリマの物語は英語で書かれてもよかったはずなのです。
実際、手紙の主が知人にあてたメ一ルが出てきますが、これはメールそのものが載せてあり、英語です。
手紙の主は英語圏で暮らす日本人であり、英語圏で英語を日常語として使うことを決意した女性なのですから。
しかし、サリマの物語を綴るにあたって、一旦は英語で書き出しますが、母語である日本語を使うことにします。
 
これが、サリマの物語だけであれば、難民女性の自尊心の回復というテ一マになったことと思います。
でもこの小説が描こうとするのは、もっと普遍的な、言語と人間性の問題だったと思うのです。それはサリマの物語だけでは不充分です。
サリマの物語を、何語を母語とする人間が何語で語るのか、そして、何故そうであらねばならないのか、ちゃんと説明する必要があったのだと思います。
 
サリマも手紙の主も、第二言語を生活言語として生きる道を選んだ。それが必然であれ意志的であれ。
しかし、母語を否定したわけでも捨てたわけでもない。
英語で書かれてもよかった。でも、それは母語で書かれなければ、そこに書かれる意味はその半分を喪失してしまう、
なぜなら、母語も第二言語も、周囲の人と意志の疎通を図る意味においては一緒だが、母語とはまた、今日見る夕陽のように、自分にとって特別な意味を持ち得る唯一の言語なのだから、
だからこそ、これは話者の母語で書かれなければならない
作者はそう考えたのではないでしょうか。
 
紙数は少ないのですが重層的な読み応えのある小説です。

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