主人公は五十代の女性作家です。どうやら作者自身のようです。作者自身が1人称で語るなら、これはエッセイになってしまうところ、作者は2人称という手法を取り入れて物語を作っています。
本作は16の短編連作といってよいと思うのですが、各話ほとんどが、話の始まりと終わりに、主人公を「あなたは」と2人称で語る部分を配し、間に主人公が1人称で語るストーリーが挟まれています。
なぜ作者はそんな手の込んだ仕様を持ち込まなければならなかったか。
それは、この本のもう1人の主人公が「死」或いは「別れて今は不在の人」だからです。
生が死によって縁取られるものであるなら、死を描くことによってこそ生の輪郭は浮きあがる。
この小説は、主人公の記憶につながる既に不在の人達をして生をそっと掬い取る試みなのだと思います。
作中、主人公を「あなた」と呼ぶのは、作者でも神でもなく、生前の記憶の主ではないだろうか。
死はそうして生者と共にあるのだと…。
自分の成り立ちというか、自分を自分と規定するものは、仕事だとか人間関係だとか、趣味とか、生の営みをもってするもの、常々疑う余地もなく、そう思ってきました。
今ある生のかたちが、記憶の中の死者に結びついているとはまったく思ってきませんでした。
今ある生の営みと、死者との記憶との決定的な違いは記憶の更新可能性だと思うのですが、更新が不可能であるからこそ、自分の内面の一部を決定的に形作る、そうであるなら、そこを意識的に内面化することこそが、己の生を確固たる一個の個性として表出できる…。
なんだが暗い話の連続だなあ、と思いなから読んでいたのですが、読み終えてみると、自分の人生のみっともない部分も含めて、肯定していいんだ、そう教えてくれる小説でした。
本作は16の短編連作といってよいと思うのですが、各話ほとんどが、話の始まりと終わりに、主人公を「あなたは」と2人称で語る部分を配し、間に主人公が1人称で語るストーリーが挟まれています。
それは、この本のもう1人の主人公が「死」或いは「別れて今は不在の人」だからです。
死者について、書きたい。
その人に関する記憶だけを頼りにして。
この小説は、主人公の記憶につながる既に不在の人達をして生をそっと掬い取る試みなのだと思います。
魂とは、記憶の集合体なのではないか
死はそうして生者と共にあるのだと…。
今ある生のかたちが、記憶の中の死者に結びついているとはまったく思ってきませんでした。
今ある生の営みと、死者との記憶との決定的な違いは記憶の更新可能性だと思うのですが、更新が不可能であるからこそ、自分の内面の一部を決定的に形作る、そうであるなら、そこを意識的に内面化することこそが、己の生を確固たる一個の個性として表出できる…。
あなた、自分と闘ってどうするの?
そんな時間があったらもっと、自分をいたわって、自分に優しくしてあげなさい。人生の時間は、限られているのよ。