高橋源一郎・著『銀河鉄道の彼方に』


銀河鉄道の彼方に                                 

分厚い本で、長編なのですが、一貫してスト一リーが続くわけではありません。ですがやはりひとつの長編小説です。
全体で4章に分かれています。それぞれ関連が、あるようなないような、感じです。
それは、各章の中においても、途中で物語が変わってしまって戸惑います。
いくつもの小説の断片が埋め込まれ、そのひとつひとつが銀河鉄道に乗りこんだ「ぼく」や「わたし」が体験する人生のようです。
 
私は残念ながら宮沢賢治に馴染みがありません。タイトルに「銀河鉄道」と入っているので、当然宮沢賢治の作品を下敷きにしていると思われますが、私にはジョバンニやカンパネルラといった名前くらいしか、どの部分が賢治の作品と重なるのかわかりません。
ただ、宮沢賢治その人が作品に登場します。
 
宮沢賢治の作品は、宮沢賢治が想像で書いたものではなく、宮沢賢治が実際に見たものを書いたのではないか?否、私達の存在も、賢治によって書かれたものかもしれない。だとすると現実とは…
小説は現実と非現実の間をいったいきたりします。しかし、もともとは小説とは非現実ではないか。読み手は混乱し、混乱の中で現実的な着地点を見出そうとするのですが、見つけ出したと思った瞬間、また途方もない空間に投げ出されます。
 
小説は「わからない」ということはどういうことか、という、禅問答のような問いから始まります。宇宙の謎が「わからない」とき、「わからない」を「わかろう」とすることとは、どういうことか、畢竟それは、自分自身の存在の証明につながってゆきます。
 
ひとりの宇宙飛行士が宇宙の果てに向けて送りだされます。一緒に乗り込んだ愛猫が死んだあと、宇宙飛行士は言葉を失ってゆきます。たった一人であるときに言葉によってモノを認識することに意味がないからです。やがて自分を認識することすら意味を失います。宇宙飛行士は地球から遠くはなれた宇宙で個を喪失しますが、拡散する意識の中で、たった一人のはずの宇宙船の中に別の存在を意識します。それは神か、否、神もまたその存在の創作に過ぎないのか…!?
小説の中で、時間も空間も歪んでゆきます。
 
私が私であることを知ろうとするとき、私の外にある存在によってしか私達は自分を知ることができず、さらに私の存在を知ろうと、その外にある存在の中味に触れるなら、更にまたその外にある存在に気づかされる。私達は自分の内面に宇宙をもっており、その内面の探査にはキリがないのです。
人類がこの地上に生まれて何千年か何万年かわかりませんが、私達が自分の存在を「知らない」ことにおいては、今日生まれたのも同然の状態です。そして、宇宙の片隅で終焉を迎える日が来るとするなら、私達の存在の、何と孤独なことか。
小説はだだ私達に「無」を提示して終わります。それだけです。何の解もありません。それはわからないからです。
「無」もまた「無」として存在していて、唯一言えるのは、私達はその「無」を知覚し得る「存在」であるということです。
そのようなときに私達はこの手につながれた小さな手を握りしめ、不確かながら一歩ずつ前へと進むしかないようです。そう、私達は更にも弱く小さな存在の手を引いているのです。その存在とは、託された命とも、言葉とも、更には意志とも言えるでしょう。その小さな手を握りしめていることこそ、唯一確かなこととして。

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