丸山健二・著『我、涙してうずくまり』
4章からなる長編ですが、4章とも主人公がお墓を刻みます。
第1章「鳩は死せり」ではシラコバト、或いは自分の─
第2章「ヤマユリ、川を下る」では“わが生涯におけるただたとりの友になれたかもしれない幼馴染み”の、或いは “愛なき境遇”だった自己の少年時代の─
第4章「水車よ、回れ」では、ツキノワグマ、或いは“卑小な自我”の─
それぞれ墓を刻みます。
そして、第3章「涙してうずくまり」では、主人公は別れた妻と和解します。壮絶な方法をもって。
そうすることでしか、理解し認めあうことができなかった孤独と人生の邂逅があります。
小説はほとんど全て主人公である私の独白です。
主人公の、肉体の目で見た情景描写と、心の目で見た心象風景とで、物語が構成されます。
登場人物がいないわけではありませんが、回想であったり、物言わぬ老婆であったり、言葉の不確かな童女であったりで、ずっと主人公の独白が続きます。
情景描写も内面の告白も豊穣な言葉を連ねており、一文あたりが長いのですが、冗長に堕することとなく、最後まで言葉の美しさを楽しむことができます。
ほんとうに言葉の美しい小説です。
言葉の美しさとは裏腹に、主人公の表白は陰鬱です。
主人公は親を知らぬ孤児です。係累を持たぬことが、埋めることのできない孤独を内に育てます。結婚はしますが孤独にのみこまれたような男に妻は耐えられず、離婚します。
神仏に頼らず、生の意義・死の意味するところを、私達はどのように解釈したらよいのでしょうか?
主人公は孤児ですが、突き詰めれば 係累があってさえ私達は皆同じように孤独です。私達は孤独の一部を、係累などによって一時的に埋めているに過ぎません。
主人公の内面の吐露は、鏡に向かって鏡を持って立つように、内面のそのまた内面に沈降してゆき、行き着くところがありません。
しかし、物語の最後に、かすかに出口の兆しが。
第4章、特にP270の情景描写などは、やや主人公の主観を離れた趣があります。
それは、主人公の視点が、内と外のみだったのが、外からの自分と外界、そして内面と広がったからではないでしょうか?
不可知の存在が、私達の目を通してこの外界を見、また内面を照覧している。それは「私」のような孤独に苛まれ内向する卑小な者であっても例外ではない。
その存在は自我を内包して存在する、私に寄り添う第2の自我。
その存在に気づいたとき、主人公は水車の回転のような時間の連鎖の中に自己の生をつなぎ止められたのだと思います。
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