小川洋子・著『原稿零枚日記』


原稿零枚日記                                 

不思議な小説です。恥ずかしながら、私は当初エッセイだと思って読み始めました。
タイトルが示す通り、日記形式で綴られていて、冒頭に目次がないのです。してやられた、といった感じです。
 
そりゃ苔料理なんてヘンだと思いましたよ。昔住んだ家の間取りを方眼紙に書くのに、書き切れなくて方眼紙を延々継ぎ足してゆくとか、

作家の生活とはかくも不条理なものか…
作家の私生活の方がよほど小説的だな…
祖母の同居人が祖母の右肘に住んでいる…
…小説じゃないか、これは(゚Д゚;)
 
26編の連作短編というか、ある作家の26日分の架空日記と言ったら良いでしょうか?
日記ですから、繋がりもあれば各日独立もしているわけです。ひとつひとつがショートショートといった趣があります。
 
全体としてひとつの小説になっているのですが、あらすじを説明するのは難しいです。
いっそ、主人公にこの小説のあらすじを語ってもらった章を小説の最後につけておいて欲しかったです。
 
主人公は小説家であると同時に、公民館の「あらすじ教室」の講師なのです。
 
この「あらすじ教室」というのがまた、本当にありそうな気になってしまう微妙さなのですが、「苔料理」といい、この、良く考えればありえないけど、一瞬あり得るものとして疑うことなく読まされてしまう、
こうした作家のたくらみにまんまとひっかかってしまうのが、この小説の妙といえるでしょうか。
 
主人公は、
 

いつしか私のあらすじが、作品本体より面白くなってしまった

 
というくらいの、あらすじの名手なのです。
 
この小説はナンセンス小説と言って良いかと思うのですが、その不条理の狭間に漂うのは、そこはかとない喪失感です。
それも、一度も手にしえなかったものの喪失感です。
 
あらすじが本編を超えるなら、そこにはあらすじに相応しい本当の(幻の)本編があるのではないか、「あらすじ教室」の生徒達は、主人公のあらすじの朗読に息を詰めて聞き入り、あらすじの向こうにある実在しない本編に思いを馳せるのです。
 
あらすじの朗読を聞き終えると
 

皆、長い旅を終えたかのような顔をして、椅子の背にもたれ掛かっている

 
あらすじの本編はひとりひとりの想像の中にしか存在せず、深いため息をつくしかないのです、故無き喪失感とともに。
 
主人公の母親は、入院しています。
 

母は、さあいよいよこれを手放したら後にはもう何も残らない、という最後の一声を私に発し、それが娘の掌に落ちて消えてゆくのを見送ったに違いない。私は掌を見た。そこは空っぽで、すっかり乾ききっていた。

 
同じ病院の新生児室で、ガラス越しに新生児を見て泣く女がいます。事情はわかりませんが、この女性も手に入らなかったものの喪失感に泣き暮れているのだと思います。
 
新生児室の乳児、病院の老いた母、そして手に入らなかったものに涙する女、生とは、一体私達が本当に手にしているものなのでしょうか?生の存在とは一体どこにあるのでしょうか?私達の存在はゆるぎないものなのに、生とはなんと不確かな存在か…。
 
手に入らないものを求めることの多幸感と、手に入らなかったもののやるせない喪失感、生は一体どちらに属するのでしょうか…?
 
自分の存在を疑わせるという、全く巧妙な仕掛けを持った小説でした。

 

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One Response to 小川洋子・著『原稿零枚日記』

  1. latifa says:

    aisymさん、こんにちは!
    こちらのブログ、この記事と、ことりの記事と、TBしようとしたのですが、TBのアドレスが解りませんでした(T_T)
    すいません!

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