Henry James・著『ねじの回転』土屋政雄・訳

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)                                 

小説というのは、うそっこのはなしを、ほんとうらしく語ること、なわけですが、『ねじの回転』においてヘンリー・ジェイムズは、ほんとうらしさの演出を二重三重にしかけています。

物語は、イギリスの田舎の古い屋敷で、幼い兄妹の家庭教師が見た幽霊譚です。

幽霊譚ということは、既にこの話のうそっぽさを白状しているようなものなのですが、しかし、家庭教師の一人称で語られる物語を、ひょっとして家庭教師の神経衰弱かなにかによる幻覚と疑えば、この小説を全く違う物語として読むことができます。

また、そのための舞台装置として、この話は家庭教師の書いた手記で、クリスマスイブに怪奇譚を聞くために集まった「私」と友人達が、ダグラスという友人からその手記の朗読を聞く、という設定となっています。

虚構①の中に虚構②を置くことで、虚構①を現実らしく見せかけ、虚構①が現実であるなら、虚構②の幽霊譚にも現実的な事実を読みとるべきではないか、と思わせます。

物語は謎だらけです。なぞのひとつひとつがねじの一回転のようです。

幽霊は家庭教師にしか見えないようですが、妹のフローラにも見えているのかどうか、兄のマイルズにはどうやら男の幽霊は見えていないようですが、であるならなぜ寄宿学校を放校になったのか、兄妹の後見人が家庭教師に全てをまかせ、何があっても自分に連絡するな、と言ったのは、単に面到だからか他に事情があるのか、女中頭のグロースさんは何も知らないのか知っているのか、二人の幽霊は本当にいるのか、出てきた理由は何なのか…小説全体が謎だらけで、一読しただけでは取り残されてしまいます。フラストレーションがたまりますσ(^_^;

この小説は家庭教師による手記という体裁のため細部を詳述してくれません。謎を謎としたままグイグイと物語を進行させ、それなのにいつのまにか家庭教師の恐怖感を共有してしまっています。そして最後、ひょっとして家庭教師の方がおかしいんじゃないか、と読者が小説家のねらいに感づきはじめた矢先にあっと驚く結末です。最後のねじの一回転には不思議なカタルシスがあります。でも謎は全く解決していません。もう一度読んで自分で解決するしかなさそうです。それこそが、ヘンリー・ジェイムズが我々に仕掛けたねじの回転だったのでしょう。

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