石牟礼道子・著『椿の海の記』


石牟礼道子―椿の海の記 (人間の記録 (104))                                 

私が石牟礼道子の名前を知ったのは、「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」の第30巻に、「苦海浄土」が収められたことによります。

「苦海浄土」は水俣病を告発した文学として有名なのですが、恥ずかしながら私は氏の名前も作品も知りませんでした。
「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」は文字通り、世界の文学から池澤夏樹が厳選した作品を収録したもので、日本の作家として唯一、そして全集の最後に収録されたのが石牟礼道子の「苦海浄土」でした。

「苦海浄土」は、水俣病患者山中九平少年の描写から始まります。自然とひとつながりになったような不知火海の人々の営みの中にあって、山中少年の四肢の動きは不自然です。
筆者は声高に原因企業や政府の対応を糾弾するわけではありません。人間が人間に対して行ったことを静かに物語ってゆきます。その静けさは、筆者の存在、気配をも感じさせません。不思議な文章です。筆者は書かれてあるすべての場面に立ち会いながら、主観的感情表現を抑え、人間の矜持も酷薄さも同時にすべてを語ります。

気配を消して人間社会の悲惨に寄り添う作者とは一体どんな方なのでしょうか。

「椿の海の記」は作者の幼いころを描いた作品です。90年に近い昔の、一地方の農漁村の習俗が描かれてはいますが、郷愁や過去への哀惜、あるいは美化をもっては描れていません。作者の筆は、人間の業を描きだします。祖父の破産、祖母の狂気、隣の遊女たちの悲惨。作者は人間存在の意味を深く問いかけているように思います。そしてその筆も、とても静かです。

狂気にふれた祖母は周囲からおもかさまと呼ばれ、厄介ではあっても蔑まされることはありません。おもかさまには荒神さんがついたのだと、みんな納得しています。人間と、人間でないなにものかが、かつては人々の生活、或いは意識の中に同居していたのです。幼少の作者が、神に憑かれて徘徊するおもかさまの手をひく役目を与えられます。おもかさまは作者の言うことだけは聞きます。

長じて作者は水俣病患者に寄り添います。それは、何者かが与えた資格だったのかもしれません。ただ、人々に取り憑いたのは神ではなく有機水銀であり、取り憑かれた人々には病気の苦しみに差別が加わります。

2012年7月、水俣病被害者救済特別措置法に基づく救済手続きの申請が打ち切られました。これは単なる制度上の幕引きであって、化学工業会社が起こした健康被害の終結ではありません。人間の業とは、日付けを区切ってリセットされるものではありませんから。

作者、即ち「椿の海の記」の主人公“みっちん”の生きる生とくらべると、私の生は軽く感じられます。たぶんそれは、太古からの生の流れから隔絶したような都会暮らしの浮薄さ故だと思われます。だけどそれは、現代を生きるわれわれが、人間の業から解放されたことを意味しないでしょう。社会は膨張し、複雑化し、その分われわれは人間悲劇の全体像をつかみかね、あるいは知らぬ振りをして、むしろ却って業を深めているのではないでしょうか?

便利でこそあれ、生きることのおかしみやはかなさ、或いはまた豊かさを、わたしたちは日常どれほど味わって生活しているでしょうか。業を深めたことの代償が、無味乾燥で浮薄な都会暮らしだとするなら、われわれはどのようにして生ある生を取り戻せるのか、それを考えることが、現代人に課せられた人間存在への問いかけではないでしょうか。

 

(2013.04.07追記)4/5河出書房さんから文庫版が出版されました。

椿の海の記 (河出文庫)

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