椰月美智子・著『しずかな日々』


しずかな日々                                 


人生っていうと大げさですけど、私達の生活に、 友情や絆や、和解や確執という言葉って、頻出語句ではないと思います。寧ろ馴染まない…。
でも私たちは、ある瞬間を「友情」と名付け「絆」と名付け「和解」とも「確執」とも名付けているわけです。
 そうすると刹那の折々が特別な意味を持つような気がして。
 でも、刹那の折々が特別な意味を持ったとしても、それは、人生全般に特別な意味付けをするわけではありません。人生とは、そんなこんなを含めた、遠く長い道のりのようですから。
この小説には、友情も絆も和解も確執も出てきません。
主人公は小学5年生の男の子で 母親と2人でアパートで暮らしています。しかし、母親の仕事の都合で
 

古くて大きな、テレビで見たことのあるだれかの田舎のような昔ながらのうち

 
で、母親の父、つまり“おじいさん”と2人で暮らすことになります。
 
主人公は内向的な少年です。
 

ぼくはいつだって、まぬけなクラスの一員でしかなかった。クラスメイトには、ぼくは、なんの取り得もなく、目立つことのないさえない男の子という認識しかなかったと思う。

 
5年生になったばかりの主人公は、クラス替えになった教室で、仲のいい友達もいません。
しかし、そんな主人公に、後ろの席の押野という元気のいい少年が、放課後主人公を野球に誘います。
そしてその押野は、主人公の忘れ得ぬ友達になるのです。
 
この小説は主人公の一人称小説なので、内気な主人公に、なぜ押野がからんでゆくのか、説明にあたるような描写はありません。
読者は、主人公と一緒にキョトンとするばかりです。
私は、小学生が友達になるきっかけって、たまたま席が前後してただけとか、そんなことからかもしれないな、ととりあえず納得して読み進めました。
しかし、長じて大人になった主人公は述懐するのです。
 

ぼくはいつでもすぐに押野を思い出せる。退屈している人やさびしそうな人に敏感で、その人にぴったりな話題を見つけては自分の元気を惜しみなくあたえる押野。何年たったって、押野の資質は変わらないだろう。

 
子供の頃は、自分のことで精一杯だし、人生経験もないので、友達の人物評価などできません。大人になって、はじめて友達の良さに気付くとき、私達は心に甘やかな痛みを覚えます。
この小説は、そんな痛みに溢れているのです。
 

ぼくは時おり、あのころのことを丁寧に思い出す。降りはじめた雨がしみこんでゆくときの土の匂い。記憶はつぎからつぎへとカードがめくれるようにわいてきて、あの、はじまりの夏を思い出させてくれる。ぼくはいつだってあの日に戻れる。

 
大きなストーリーが展開するれけではありません。
 

人生は劇的ではないと思う。

 
主人公の言うとおり、私達の人生は劇的なところなどなく、平凡な日常に塗り込められています。
でも、平凡ではあるけど、驚きや発見や知らないことへの期待と不安や少しの悲しみを含み、尚且つ自分の意志ではどうにもならないことばかりの小学5年生の夏が、今に続いているとするなら、
 

おじいさんといっしょに過ごした日々は今のぼくにとっての唯一無ニの帰る場所だ。たれもが子どものころに、あたりまえに過ごした安心できる時間。そんな時がぼくにもあったんだ、という自信が、きっとこれから先のぼくを勇気づけてくれるはずだ。

 
そして大人になった主人公は言うのです。
 

ぼくは縁側に座って、水まきあとの土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。そうすると、ぼくはいつだってあのころに戻れるし、今の頼りない自分ですら誇りに思えてくるのだ。人生は劇的ではない。ぼくはこれからも生きていく。

 
この小説は、大人が単に子供の頃を思い出して郷愁に浸るためのものではないと思います。
 
主人公は、母親のことでは深く傷ついています。大人になってからさえ苦しめられているようです。
 
子供の頃を思い出したとき、ただ単に郷愁だけでなく、例えば肉親との離別や引っ越しや転校といった、今でも胸が痛むような辛い思い出が、ひとつふたつ誰にでもあるのではないでしょうか。
そうした痛みは、ともすれば、あれさえなければ、あのときこうであったなら、と考えても仕方のない堂々巡りをし、果ては今ある生活や自分をすら否定的に考えてしまう、そんなことがあるのではないでしょうか。
 
そんな私のような卑屈な大人に、この平凡な人生をまたしっかり生きてゆこう、そんな気持ちを取り戻させてくれる小説でした。
 
大きなストーリーの展開もないのに、大きな印象を残すという点で、庄野潤三の『夕べの雲』を思い出しました。

しずかな日々 (講談社文庫) 夕べの雲 (講談社文芸文庫)

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