ドストエフスキー・著『地下室の記録』亀山郁夫・訳


新訳 地下室の記録                                 

小説は1部と2部にわかれています。2部は結構長いですが、1部は結構短いです。
 
2部にはストーリーらしきものがありますが、1部にはありません。1部は、なぜ2部を書くに至ったかの前書きです。
1部を結構短いと言いましたが、前書きとして考えると、とても長い前書きです。
 
ただここで注意を要するのは、1部・2部共に、あくまでも主人公の手記である、ということです。
1人称小説とは少し違います。独白ではないのです。
 
ドストエフスキーが40歳の元官吏を創造し、その元官吏が手記を書いている、という体裁なのです。
小説の中で主人公が動くのではなく、私達の頭(想像)の中に主人公がおり、その主人公が書いた手記を私達が読んでいるのです。
 
第1部では主人公が地下室に籠もった、籠もらざるを得なかった理由と、第2部を書く動機が語られます。
 

わたしは、病んだ人間だ

 

わたしは底意地が悪くおよそ人に好かれるような男ではない

 

何者にもなれなかった。悪人にも、善人にも、卑怯者にも、正直者にも、ヒーローにも、虫けらにもなれなかった

 
これが主人公なのです。
これが40歳の元官吏なのです。こんな男の手記を読む価値があるのでしょうか?
 

わたしが、なぜ、虫けらにもなりそこねたか

 

意識しすぎるということ、これは病である

 
意識する人間とはどのような人間か、主人公は正反対の人間として「直情径行型の人間」「実践家」を挙げます。
 

直情径行型の人間や実践家がおしなべて活動的なのは、彼らが鈍感であり偏屈だからである

 
主人公は直情径行型の人間や実践家を徹底して軽蔑しますが、意識する人間がたとえ賢くとも、決して彼らより抜きんでて社会の中心となって世の中を動かしてゆく存在とはなりえないことをよく知っています。
場合によっては、その知的能力に見合わぬ、実に愚かな行動に出ることすらあることも。
 

人間が復讐するのは、そこに正義を見出しているからだ。しかし、わたしの場合、そんなところに正義など認めないし、どんな善も見つけられないので、かりに復讐を考えるとすれば、ひたすら憎しみあまってという結果になる

 
知的であるがゆえに行動の動機が単純化されるという逆説。
 

あれこれ復讐のための手段を尽くしたところで、 復讐する相手より自分のほうが百倍苦しむだけで、相手は おそらく痛くもかゆくもないことを前もって知っている

 

わたしが自分を賢い人間とみなしているのは、これまで何ひとつはじめることもしなければ、何ひとつ終えることもできなかった、ただそれだけかもしれない

 
意識する人間は、知性と欲求の狭間にあって肯定と否定とにがんじがらめにされ、地下室に入りこまざるをないようです。
 
この地下室というのは、自分の意識の地下室ではないでしょうか。
知的な人間が、誰も傷つけず、誰にも傷つけられずに生きようとすれば、意識する自分を、地下室に閉じこめておくほかありません。
 
意識する人間が意識を意識の地下室に閉じ込め、直情径行型の人間や実践家のふりをすることはあっても、その逆はありません。
直情径行型の人間や実践家が幅を利かせる世にあって、意識する人間は深く傷つき続けます。
 
第2部にはスト一リーがある、と書きましたが、第2部は、主人公が親戚の遺産を受け役人を辞めて本物の地下室生活をする以前の話となっています。
 

どんな人の思い出のなかにも、親しい友人以外にはけっして打ちあけられない話がある。いや、親しい友人にも打ちあけられず、ただひたすら自分にだけ、こっそりと打ちあけるしかない思い出がある。それどころか、自分自身にすら恐くて打ちあけられない思い出もある。どんなにまじめな人間にもそうしたたぐいの思い出はあるし、まともな人間であればあるほど、そういうたぐいの思い出が積もり積もっているものだ。

 
虫けらにもなれなかった意識する人間の思い出話なので、心に地下室を持たない人は読むべきではないし、そういう人にとっては読む価値もないのですが、そういう方はまず第1部の第1章で、ひょっとしたら1行目で既に読むのをやめていることでしょう。
 
第2部のエピソードは、どこかで読んだ既視感があります。
そうです、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に似たような挿話や設定がでてくるのです。
第1部が第2部の前書きだとするなら、この第1部は、ドストエフスキーのその後の文学活動の前書きと言えるかもしれません。
 

わたしという人間は、わたしのすべての成り立ちがたんなるごまかしでしかないという結論に達するためだけに創られているのか?ほんとうにそこにすべての目的があるのか?断じてそんなことはない。

 

地下室など、ぜんぜんよくないし、わたしが渇望している、何か別の、ぜんぜん別のもの、ただし、なんとしても見つからない何かのほうがはるかにいいことぐらい、二二が四のようにはっきりわかっているのだから。

 
この部分は主人公の言葉というよりも、作家の直の言葉のような気がするのです。
人間の行動原理の説明を、二二が四のような自然の法則にあてはめることを断固否定している作家が、自分が探し求める“ なんとしてもみつからない何か ”の方が地下室より良いことは、 二二が四のようにはっきりしている、と断言しているのです。
 
“ なんとしてもみつからない何か ”が、 地下室でもない、直情径行型でもない、別な人間のあり方だとして、それが以後の作品において繰り返し探し求め続けられたとするなら、重厚にして長大な作品群も、わずかながら近づき易くなった気がします。
 
第2部には名前が付けられているのですが、第1部の最後に次のこんな一文で第2部に引き継がれます。
 

今日は、雪が降っている。ぼたん雪に似た、黄色くて、にごった雪だ。昨日も雪だった。二、三日前も雪が降った。わたしのなかからなかなか離れようとしないあのエピソードを思いだしたのは、このぼたん雪のせいらしい。そんなわけで、この物語を、ぼたん雪にちなんだ物語と名づけることにする。

 
激しい言葉の羅列のあとで、不思議な静謐をたたえたこの部分が私には一番印象に残っていて、本文の内容とは無関係に大好きな部分です。

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