1部を結構短いと言いましたが、前書きとして考えると、とても長い前書きです。
1人称小説とは少し違います。独白ではないのです。
小説の中で主人公が動くのではなく、私達の頭(想像)の中に主人公がおり、その主人公が書いた手記を私達が読んでいるのです。
わたしは、病んだ人間だ
わたしは底意地が悪くおよそ人に好かれるような男ではない
何者にもなれなかった。悪人にも、善人にも、卑怯者にも、正直者にも、ヒーローにも、虫けらにもなれなかった
これが40歳の元官吏なのです。こんな男の手記を読む価値があるのでしょうか?
わたしが、なぜ、虫けらにもなりそこねたか
意識しすぎるということ、これは病である
直情径行型の人間や実践家がおしなべて活動的なのは、彼らが鈍感であり偏屈だからである
場合によっては、その知的能力に見合わぬ、実に愚かな行動に出ることすらあることも。
人間が復讐するのは、そこに正義を見出しているからだ。しかし、わたしの場合、そんなところに正義など認めないし、どんな善も見つけられないので、かりに復讐を考えるとすれば、ひたすら憎しみあまってという結果になる
あれこれ復讐のための手段を尽くしたところで、 復讐する相手より自分のほうが百倍苦しむだけで、相手は おそらく痛くもかゆくもないことを前もって知っている
わたしが自分を賢い人間とみなしているのは、これまで何ひとつはじめることもしなければ、何ひとつ終えることもできなかった、ただそれだけかもしれない
知的な人間が、誰も傷つけず、誰にも傷つけられずに生きようとすれば、意識する自分を、地下室に閉じこめておくほかありません。
直情径行型の人間や実践家が幅を利かせる世にあって、意識する人間は深く傷つき続けます。
どんな人の思い出のなかにも、親しい友人以外にはけっして打ちあけられない話がある。いや、親しい友人にも打ちあけられず、ただひたすら自分にだけ、こっそりと打ちあけるしかない思い出がある。それどころか、自分自身にすら恐くて打ちあけられない思い出もある。どんなにまじめな人間にもそうしたたぐいの思い出はあるし、まともな人間であればあるほど、そういうたぐいの思い出が積もり積もっているものだ。
そうです、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に似たような挿話や設定がでてくるのです。
第1部が第2部の前書きだとするなら、この第1部は、ドストエフスキーのその後の文学活動の前書きと言えるかもしれません。
わたしという人間は、わたしのすべての成り立ちがたんなるごまかしでしかないという結論に達するためだけに創られているのか?ほんとうにそこにすべての目的があるのか?断じてそんなことはない。
地下室など、ぜんぜんよくないし、わたしが渇望している、何か別の、ぜんぜん別のもの、ただし、なんとしても見つからない何かのほうがはるかにいいことぐらい、二二が四のようにはっきりわかっているのだから。
人間の行動原理の説明を、二二が四のような自然の法則にあてはめることを断固否定している作家が、自分が探し求める“ なんとしてもみつからない何か ”の方が地下室より良いことは、 二二が四のようにはっきりしている、と断言しているのです。
今日は、雪が降っている。ぼたん雪に似た、黄色くて、にごった雪だ。昨日も雪だった。二、三日前も雪が降った。わたしのなかからなかなか離れようとしないあのエピソードを思いだしたのは、このぼたん雪のせいらしい。そんなわけで、この物語を、ぼたん雪にちなんだ物語と名づけることにする。