池澤夏樹・著『氷山の南』

氷山の南                                 

アイヌの血をひく18歳の少年ジンが主人公の、冒険小説であり、イニシエーション小説です。
また、開発プロジェクト対環境テロのサスペンス的な要素もあって、読み応えもあり飽きさせません。

2016年、カイザワ・ジンは、南氷洋の氷山をオーストラリアに曳航する船舶シンディーバード号に潜り込みます。それは大陸の水不足を解消するための実験的なプロジェクトです。
無許可で勝手に乗り込んだ、いわば密航ですが、船の目的地は南氷洋で、氷山を曳いて戻ってくるのですから、どこにもたどり着けません。出航後ジンを発見したプロジェクトのスタッフや船員達はその目的をいぶかります。
もちろん、ジンはその船の目的をちゃんと知ったうえでの”密航”です。

発見され、船長や船主、プロジェクトのリーダーたちの前に引き出されたジンは、彼らから尋問を受けます。そこで彼は自分について語り、自分の目的について演説します。ニュージーランドの高校に留学していたジンは、日本的な情緒に頼らず自己主張する方法を身に付けています。

「~ぼくの閉塞感を打ち破る方向があるはずで、できるならばそれは人間みんなの、この時代この惑星で暮らすみんなの閉塞感を打ち破るものにつながってほしい」
「それが、この永山のプロジェクトだった。自分の非力はわかっています。ぼくには資格はない。しかし目撃者・報告者にはなれる」

かくしてジンは、正式に乗船を許され、厨房の助手と船内新聞の記者という役割を与えられます。ジンは厨房の助手としてパンをこね、記者として船内の様々な人達をレポ一トします。シンディーバード号には船員だけでなく、氷山曳航に関わる技術者や研究者が乗っており、それらの人々は年齢も性別も国籍も宗教もみなバラバラです。小説の前半は、ジンがこれらの人々を取材するかたちで進んでゆきます。これは、プロジェクトに反対する勢力のスパイ探しという後半につながってゆくのですが、この部分だけ見ればOO歳のハローワーク的で面白いと思います。

物語の後半、ジンはシンディーバード号を離れ、 出航前に会ったアボリジニ の少年ジムに会いにゆきます。そこでジンは アボリジニ の伝統的な生き方を知ります。
そこには、自然の中で自然に生かされて生活する、おそらくはかつて地球上のいたるところに散在して行われていたであろう謙虚なひとつの民族の豊かな知恵があります。
一方で氷山曳航ブロジェクトは、人類が自然に対して行ってきた開発のひとつの到達点です。

私達は アボリジニ のような生活を全地球規模でするわけにはいきません。しかし、人類が文明に頼って幸福を求めた結果、人口は増加し食料不足を招こうとしています。
アボリジニ の生活と氷山曳航プロジェクトの対比が、私達に開発とほどほどの不自由さとのバランスの選択を迫っているようです。

ジンは、 ジムを連れてシンディーバード号に戻ります。そして二人で氷山の上で無言と不眠と断食を通し、大人になる儀式を行います。
アイヌも アボリジニ も、それぞれ個有の知恵や文化を持つ民族ですが、現代文明に飲み込まれ、共同体を失いつつあります。かつて、子供達は通過儀礼をもって共同体に大人として迎え入れられていました。しかし、現代、私達はそのような共同体を喪失しています。これはアイヌや アボリジニ だけの問題ではありません。
アイヌとアボリジニという2つの少数民族の少年が、互いに認めあって共通の儀式を共同で行い、大人になろうとする姿に、作者が若い世代にかける期待或いは希望を見ることができます。

氷山曳航プロジェクトは意外な結末を迎え、シンディーバード号に乗っていた人々はそれぞれのホームに帰ってゆきます。ジムも既にアボリジニの土地に帰っています。ではジンは?

北海道を離れ、ニュ一ジーランドの高校に学び、シンディーバード号に密航を企てたジンはどこに行きつくのか。小説は、ジンが書いた、氷山曳航ブロジェクトを妨害した思想団体のリ一ダーへの手紙を最後に終わります。ジンがこのあとどこに向かうのか、書いてありません。
ジンは私達です。共同体を失い、環境と文明の危ういバランスの上で、どこにも行きあぐねている少年こそが、現代の私達の姿ではないでしょうか?

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