三島由紀夫・著『憂国』

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)   
登場人物は夫と妻の二人です。
短い小説ですが四つに分かれています。各章は
「壹」「弐」「参」「肆」
と表記されており、暗示的です。
参まではササッと読み進めたのですが、肆に至って、通勤電車の中でちょっと読んでは本を閉じ、手でロを押さえたり、辺りを見まわしたりなどして気持ちを落ち着けながら読み進めました。
 

新郎新婦の記念写真を見せてもらっただけの人も、この二人の美男美女ぶりに改めて感嘆の声を洩らした。

 
二人は結婚して半年です。
夫は帝国軍人で中尉です。
 

この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた

 
『潮騒』における新治と初江のようです。
 
しかし、昭和11年2月26日、いわゆるニ・二六事件が起こります。夫は仲間の企てを知りませんでした。仲間が、結婚したばかりの友を慮って、誘わなかったのだと思われます。結果、敵味方となって銃口を向けあうことになりますが、事件から3日目、にらみ合いの続く中、夫は一時帰宅を許されます。
 
自分の外にある恩寵と、自分の内にある意志とそれを遂行する力。
描こうとしたところは『潮騒』と同じようです。
しかし、『潮騒』では描かれなかった部分があります。
『潮騒』では新治と初江は肉体的に結ばれていません。
恩寵に満たされた神話的な調和と、男女を結び付ける肉体的なつながり、平たくいえば肉欲との整合性について、作者は説明する必要性を感じていたのかもしれません。
この美しき世界を作家が文学的に再構築するにあたって、その身体性を精神性の高みに持ち上げる必要があったのだと私は思います。肉体とはなんと重く厄介なものでしょうか。
 
さらに、この小説は、身体性を精神性の高みに昇華するその道の険しさを、自死の苦痛によって描きます。
 
崇高とか高邁とか、精神性の高みを美しく表現することは容易です。しかしそこに至るための肉体的苦痛、また即物的に美しくない在り様、神々の恩寵に与った美しい調和の世界にあっても、私達の生きるこの道は、粗末であったり薄汚かったり醜かったりすること、そしてそのことのもたらす苦しみに、日々あふれているのです。そのことから目をそらすな、作者はそう言っているように私は思います。
精神性の高みに、神々の恩寵の真髄に行き着くためには、私達は美しい肉体に苦痛を与え、醜く変容させることでしか辿り着くことが出来ないとしたら…美しく生き、美しく死ぬことのむごたらしさを示して、そのことの覚悟につりて問いただされている、私はそのように感じました。
 
私に切腹は…無理だと思いました。

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