森鴎外・著『舞姫』

 



 

舞姫 (集英社文庫) 

 

 

 

ひどい話です。明治時代のお話です。
男が女を捨てます。女はドイツ人で身重です。男はドイツに派遣された若いエリート官僚です。
端的に言ってしまうとそれだけの話なのですが、1人の青年の、明治時代のエリートの、鬱屈と屈折、ドイツ人の女性はその犠牲と言え、またそれを青年はよく理解する内省があってその懊悩が描かれます。

大学法学部を優秀な成績で卒業し某省に採用された太田豊太郎は将来を嘱望された青年です。
彼はドイツに派遣されますが、小説は、5年後の帰国の途にある船上で、彼がその5年間を振り返る形で語られます。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず

外国に駐在して帰るのです、それも明治時代の話です、意気揚々と故郷に錦を飾る心持ちであってもよさそうですが、この主人公はどうも様子が違います。

学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮き世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言うも更なり、われとわが心さえ変り易きをも悟り得たり

ただ単に斜に構えてるだけでしょうか?
どうも彼はそんな性格でもないようです。

彼人々は余が倶に麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬのを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且は嘲り且は嫉みたりけん。

彼は周囲からするとつきあいにくい人物のようです。
彼は女性のいる店に出入りしてそれを武勇伝として吹聴するようなそういう付き合いが苦手なのです。清廉ぶっているわけではなく、ただ単に苦手で、それは彼が高い自我意識を持っているからだと思います。彼のような存在が、組織の中でうまくやってゆくというのは難しいことでしょう。

彼はドイツにおける勤務をそつなくこなし、大学において更に法律を学ぶのですが、次第に勤務や法律を学ぶことに倦み飽き、歴史文学へと自分の興味を移してゆきます。

我母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん

母親や自分を重用してくれた人への恩と、内なる「自分」の声との間で自分の身の立て方に迷います。

そんな彼が、1人の踊り子と出会うのです。周囲の浮薄な付き合いを避けていた彼が、ドイツ人の少女と出会って運命を変えてゆくのは皮肉です。

少女はエリスといいます。
エリスには彼が必要だったし、彼は必要とされることが必要だった。

彼は勤めを辞めます。一人の若者の転落です。明治青年の自分探しといったところでしょうか?

収入の道を失ったわけですが相沢謙吉という友人が、手を回して新聞社の通信員という口を見つけてくれます。
この相沢が、その後再び官吏への登用をお膳立てするのですが、主人公は最後にこう吐露するのです。

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むところ今日までも残れりけり。

どうも最後の述懐は、相当年数を経た後のものと見た方がよさそうです。

おそらく主人公は帰国して後、相沢程かわかりませんが、如才なく官僚生活を送ったのではないでしようか。その生活が順風満帆であってみればなおのこと、自分自身への反感と嫌悪を感じているのではないでしょうか。
もちろん、誰が見ても相沢がしたことは正しかったと言えるし、
あのまま主人公がドイッに残ってはたして有意義な生活ができたとは思わないでしょう。

言ってみれば、社会的な転落であっても、欺瞞と虚勢の上昇志向が巾をきかせる世界よりもそこに真実がある、或いはあったかもしれない、そうであればそのような生活の中にこそ生きる意味があったのでは…。作者はそう考えたのかもしれません。
主人公はエリスを失い自分自身の人生を失ったのかもしれません。

 

 
 
 
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泉鏡花・著『高野聖』



高野聖 (集英社文庫) 

 

高野聖とは高野山で修業する僧のことのようです。本物語はそのような僧が語る怪奇譚です。

物語は僧が旅の宿で「わたし」に飛騨の山越えの体験を語るという体裁になっています。

このような入れ子構造は、ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』にも見られ、物語に臨場感を与えて読む者を引き込みます。

「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をからげて、表紙を附けた折本になってるのを引っ張り出した」

本文は僧の語りから入ります。“参謀本部”というのは2014年現在としては「昔の話」的ですが、本書が書かれた当時は現代的な意味合いを持っていたと思われます。
つまり、この話は昔々の物語ではないのです。

この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今タ敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。

地の文は「わたし」の独白です。文章に無駄がありません。読手は緊張を強いられます。

道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知っている限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。

どういうことなのでしょうか…?今だに私にはこの一文の意味がわからないのです。
僧は既に俗世の人間ではなくなっているのでしょうか…?

新幹線や航空機が長距離の移動手段となった現代では、旅の道連れというのもできにくいのですが、 「わたし」は敦賀に向かう列車の中で僧と懇意になり、宿も同室となります。蒸気機関車の頃の旅の道程はさぞかし長かったことでしょう。今ではほぼ考えられないことです。

旅の宿で寝付かれない「わたし」に、僧がかつて経験した飛騨から信州に抜ける山越えの話をします。

蛇やヒルのうようよする、森の深い山の裏道を抜け、きれいな流れのあるところに僧は辿り着きます。
山道に入る前に出会った富山の薬売りを追いかけてきたはずなのに、既にどこにも見当たりません。
そこで馬のいななきを耳にします。山家の一軒家があったのです。

その家には美しい婦人と奇妙な男が住んでいました。
馬は馬子に連れられ売られてゆくところでしたが、実はこの馬は富山の薬売りが変化させられたものだと僧はあとで知らされるのです。

それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫りの花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい

魑魅魍魎が蠢く山の一軒家、僧が過す甘美にして奇怪な一夜が描かれます。
果たして僧は人のままでいられたのか…?

「わたし」との会話は列車の中であったり宿屋だったりして、どこか乾いた印象を与えますが、山や森や滝などの僧が語る情景は、一気に湿気を含むようで、更には官能的で、文章が皮膚に張り付くようです。

修業の僧だから人間を失わなかったのか、それとももっと違うものとなったのか…?
私達は皮膚の下に動物を潜ませているのかもしれません。
山家の女はそれを解放させるだけ…。

僧は山家の一夜で何かを失い何かを得たのかもしれません。その何かはとても人間的で、かつまた非人間的なものであったのかも…。修業というものがまた、人間的欲求であって、非人間的行為なのだから…。

怪奇譚というのは、ひょっとしたら構造を読む楽しみであるかもしれません。

どんなに冷静に展開とオチを想像しながら読んでいても、背筋にぞくりと冷たいものを感じたとき、そのしてやられた感が、なんとも心地良かったりするのです。

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芥川龍之介・著『地獄変』



地獄変・偸盗 (新潮文庫) 

 

良心について書かれています。
否、書かれていないのです。
 
人が鬼ともなりうることを描くことで、人が人であることを描こうとした、私はそう読みたいのです。
 
人は醜く愚かで残虐です。
ヒューマニズムを描くために、人間の素晴らしさを描く、それはそれで良いのでしょう。しかしそれでは人間性の全てを描いたことになりません。
 
作中、猿が登場します。
主な登場人物は、堀川の大殿様、画師の良秀、良秀の娘です。
猿は良秀の娘になついています。
しかし、堀川の大殿様も良秀も、猿以下の人間、否、猿以上の畜生です。
 
画師である良秀は、高貴で豪壮な方である堀川の大殿様から地獄変を描いた屏風の製作を命ぜられます。
 
良秀は
 

その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師

 
でしたが
 

私は総じて、見たものでなければ描けませぬ

 
という画師です。
 
地獄変を描くにあたり、弟子を鎖で縛り上げたり、猛禽に襲わせるなどして地獄の様相を描いてゆきます。
 
堀川の大殿様は

 
では、地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな

 
ということで、良秀の前に恐るべき地獄の有様を設定します。
 
この小説は、堀川の大殿様に仕える家来の独白による一人称小説となっています。
ですので、堀川の大殿様、良秀、良秀の娘、そして猿、主要な登場人物の内面の動きは描かれません。
独白をする家来はただ語るだけなので、果たして主人公は誰なのか、極めて曖昧となっています。
 
これは、堀川の大殿様、良秀、良秀の娘、そして猿、それぞれに読み手の主観を当てることで、それぞれに違うことを読みとることができる構造となってます。
 
私は、この小説の主人公は、堀川の大殿様だと思いました。
堀川の大殿様の無慈悲さ、残虐さ、無反省、無回顧、そして傍観者性、地獄とはそのような人間の様相を言うのであって、決して空想の世界ではない。現世にこそ地獄はある。
 
この世に地獄があるとして、それを描くためには地獄に足を入れねばならない。
人の内にある地獄の様相を無視して人は描けない。描いたことにならない。
 
良秀は娘を見殺しにします。見殺しにするだけでなく、自分の絵のために利用します。
堀川の大殿様も良秀も、鬼畜以下です。しかし、二人の大きな違いは、最後の良心のひとかけらなのだと思います。
良秀の酷薄さは、人の営みの全てを描出しようという目的があります。
しかし、堀川の大殿様にあるのは単なる愉悦感に過ぎません。
そんな堀川の大殿様でも、
 

良秀の心に交々往来する恐れと悲しみと驚き

 
を前にして
 

喉の渇いた獣のように喘ぎつづけて

 
いるほかないのです。
だからこそ、私はこの作品が地獄とは正反対のものを描こうとしたと思うのです。

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