破戒――何という悲しい、壮しい思想だろう。
また、師範学校というのは官費で勉強できたようで、年季が明けなければ教員をやめることができない、というようなことが書かれています。
見給え、あの容貌を。皮膚といい、骨格といい、別にそんな賤民らしいところが有るとも思われない。
もしそれが事実だとすれば、今まで知れずにいる筈も無かろうじゃないか。最早疾に知れていそうなものだ――師範学校に居る時代に、最早知れていそうなものだ。
丑松にとっても他人事ではありません。まだ身元が知られていないながらも、心中穏やかではありません。
彼は逃げるようにして下宿を移ります。そのことが後半、疑惑のひとつになるのですが…。
ただ、丑松の父親は放牧牛の牧童をしているのですが、牛に角をかけられ亡くなり、その父を殺した牛の殺処分に丑松達が立ち会う場面で、牛を解体する職人達がでてきます。彼らは被差別部落の人達で、その出自を隠している丑松の胸中は複雑です。
教員仲間でもその話題が話に上ります。
丑松の親友は、そんな馬鹿なことはない、と丑松を庇ってみせるのですが、それが酷い差別意識に基づいたものだと気づきません。
新平民か新平民でないかは容貌で解る。それに君、社会からのけものにされているもんだから、性質が非常に僻んでいるサ。まあ、新平民の中から男らしいしっかりした青年なぞの産れようが無い。
丑松の父は、子供の幸福を願い、過去を消し、隠れるようにして山の生活を選び、息子に「隠せ」と戒めを与えた。
息子はそれを一生懸命守る。しかし、隠して生きていたとしても、結局は人が自然に受け入れる楽しみや幸福を、自分には予め禁じられている。そのことに変わりはない。見せかけのアイデンティティーと自我の狭間がそれを教えるのです。
しかし、この一遍を書くことにこそ、意味があったのではないでしょうか?殊に、「新平民」の如き表現の欺瞞は、小説の中に永久保存する必要があった、今回初めて「新平民」という言葉を知った私には、そう思えました。