永井荷風・著『すみだ川』

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)    

小説は、ある時間のある場所を切り取って、そこに生きる人を描きます。当たり前のことではあるのですが、ある場所のある時間を切り取ることは、二義的な要素で、一義的には描き出された人物によって、時間や場所を越えた普遍的な人間の営みを抽出し提示するのが小説だと思います。だから、遠い外国の文学であっても読む価値があるのだし、その時代やその土地の知識がなければ理解できない、ということはないのだと、常々思っています。
 
なので、あまり文学紀行的なものには興味はないのですが、これが、普段自分が生活している場所を描いていたりすると、俄かに趣が変わります。
 
小説『すみだ川』が描く今戸橋付近は私のジョギングコ一スなのです。
 
今戸橋は隅田川に流れこむ山谷堀という堀割に掛かっていたようですが、今堀割は地中を通されていて、橋の名前が書いてある柱と欄干が残され、川のない橋という不思議な光景となっています。

川のない橋「今戸橋」の親柱

川のない橋「今戸橋」の親柱



 
主人公は中学生の長吉です。中学生といっても旧制なので18歳になります。常磐津の師匠をしている母と今戸に住んでいます。
伯父の俳諧の師匠をしている蘿月が母子を訪ねるところから小説は始まります。時代は明治の後半です。
 
小説の描くところは、端的にいうと、長吉の恋心や将来への不安と焦燥という、いつの時代にも通用するテーマなのですが、
作家はまず始めに伯父の蘿月を登場させ、今戸とは隅田川対岸の小梅瓦町から今戸まで歩かせます。
 
私の土地勘からいうと、吾妻橋を渡ってもよさそうに思うのですが、作家は隅田川の、今でいうところの墨田区側、ちょうど言問橋のあたりで蘿月を休茶屋で休ませます。冷や酒を飲みながら、隅田川越しに、台東区側の待乳山聖天を望ませます。
今はビルに囲まれて目立ちませんが、かつては聖天様のお山がこんもりとして望まれたようです。

待乳山聖天

待乳山聖天



 
その後蘿月は渡し舟に乗って隅田川を渡ります。
その当時は、言問橋はなかったようです。
今は地中の山谷堀が隅田川に合流する場所は、現在広場になっており、隅田川を挟んでスカイツリーを望む格好の場所となっていますが、その広場の片隅に「竹屋の渡し跡」の碑があります。

広場の片隅に「竹屋の渡し跡」の碑が

広場の片隅に「竹屋の渡し跡」の碑が




対岸(墨田区側)にはスカイツリーが

対岸(墨田区側)にはスカイツリーが



この小説は、紀行文では決してないのですが、作家は登場人物達をよく歩かせ、その頃の隅田川べりの街や習俗を活写しています。
 
そしてそれが成功していると思えるのは、私に土地勘があるからでしょうか?
 
このような読書が邪道のような気がして、文学紀行というものを好まないのですが、しかし、小説が書かれるためには、舞台としての時間と空間が必要で、更には作家が生きる時間や空間が作品に影響しない訳はなく、更に更に言えば、これは作家のあずかり知らぬところですが、読者のいる時間や空間もまた、作品理解に影響を与えるでしょう。
 
大学のゼミの先生が、「ヒースの丘に立って、初めて『嵐が丘』を理触した」と仰っていたのを思い出すと、「文学散歩」のような気取ったことをしてみたいと思わないこともないのですが、通勤電車を書斎とする身の上では、吊革かせいぜい座席1人分の空間から世界を想像するほかなさそうだし、それでいいのだと納得するほかなさそうです。
 
さて、長吉ですが、幼なじみのお糸と恋仲のようです。しかし、長吉はお糸に多分な恋慕の情を抱いているのですが、お糸の方は、「友達以上恋人未満」的なようで、殊更に長吉に執着している様子はありません。
お糸は16歳ですが芸妓の道に入ります。幼なじみとの淡い恋人ごっこは卒業のようです。
長吉にはそれがわかりません。
勉強して大学へ行くことにも、意義を見出せず、やる気が出ません。
そんななかで役者になることを夢想します。
 

春の末から夏の始めにかけては、折々大雨が降つづく。千束町から吉原田圃は珍しくもなく例年通り水が出た。

 
この出水は長吉の運命を大きく変えるのですが、私はそれよりこの辺りがよく出水したということを初めて知って軽く驚きました。
私がここに住んだ10年余、そういうことは1度もないので。
 
街の風景は変わります。人の営みもその表層を変えてゆくし、何より人は大人になり年老いて、やはり変わってゆきます。
変わってゆくものの中に変わらぬものを置いてみること、小説とは端的にいうとそういうものかもしれません。
 
蘿月は長吉の姿にかつての無軌道だった自分の姿を重ねます。
それはまた、スマホを片手に隅田川べりをジョギングをする私も同じです。
少しく心に痛みを感じつつ、長吉に哀れみと同情を感じる姿が重なります。そして、それは畢竟、生きることへの強い肯定でもあるのです。
 
長吉ではなく、蘿月に感情移入している自分に気が付き驚きました。

 

 
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