川端康成・著『雪国』

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))    
国境の長いトンネルを越えたら、普通は1人の青年の魂の遍歴とか、心の成長の物語を期待するものです。
 
川端康成の『雪国』に、それはありません。
 

夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 
わずか1行で、動きを止めてしまうのです。
わずか1行に、そこに書かれていない全てを凝縮し、トンネルの先の、夜の底の白い世界に私達を引き込みます。もはや出口はなさそうです。
 
小説は、主人公の島村が、温泉町の芸者駒子に会いにゆくその汽車の車中から始まります。その車中で、病気の男を看病する女性のことが、島村は気にかかります。
島村と駒子は男女の仲です。
あとでわかるのですが、病気の男は駒子の許嫁のようで、看病していたのは葉子という女性です。
 
島村が駒子と出会い、関係を結んだのが5月、そして“今”は雪の季節です。
 
島村は、親の財産を食いつぶして生きているようですが、妻と子があります。
島村と、駒子と葉子という二人の対象的な女性とのかかわりから、そこはかとなく生のゆらぎを感じさせます。
 
この小説には、確固たる物語の起伏はありません。
 
山に囲まれた温泉町に女が二人。
一人は、許婚ではないといいながら、その男のために芸者になります。
一人はその男を献身的に看病します。
前者は、現実をあるがままに受け入れ、生命力のままに生きてゆく、そんな感じです。
後者は、慎ましさの影に、山に囲まれたこの生活からの逃避への希望を抱いています。
 
そこに1人の男、つまりは島村が、山の外から現れ、二人の女の生き方を対照するのです。更には、島村という男の、なんとも頼りない生をも。
 
山に囲まれ雪の下に沈む街に出口などないのです。男と女の関係とはそういうものかもしれません。
駒子はそれを理解したうえで何も望まないし、葉子は逆に敢えてその先を望んだのだと思います。例えゆき着く先は同じでも。
最後のシーンは、作家の葉子に対する、或いは葉子的な生き方に対する優しさではないかと思うのです。
 
物語全体から見れば、これは島村と駒子の恋愛事情と言えるかもしれません。しかし、私にはこの小説は葉子のはかなく切ない生を描くための小説ではないかと思えるのです。
 
この小説は、大事なところを思いっきり省略します。
例えば、島村の言葉を駒子が聞き間違えるシーンでは、何をどう聞き間違えたのか、説明されません。
 

駒子の聞き間違えで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだった

 
聞き間違えた事実だけがあって、その結果だけを島村は噛みしめるのです。
 
この小説の中で一番の省略は、やはり葉子なのだと思います。
そしてそれは、駒子のたくましさといじらしさが密度濃く描かれれば描かれるほど、私達におぼろげなその姿をおぼろげなままに却って印象深く刻み付けるのではないでしょうか。
それはあたかも、冒頭の汽車の窓の外の景色と中の景色との二重写しのように。
 
最後の最後まで島村は傍観者的です。山に囲まれた温泉町では外部の人間ですから当然といえば当然ですが、彼は、自分の人生そのものにも、どこか傍観者的です。
そんな彼が、火事の夜に受け取ったものは何だったのでしょうか?外に出てゆきたがった葉子の生のきらめきを受けとり、実生活に根を張って生きてゆくのでしようか、それとも虚しい生を、さらにも先鋭化させてゆくのでしょうか?
この結末こそ、作家が用意した最大の省略かもしれません。
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