この作品には、東日本大震災で亡くなったと思われる死者の方々が登場します。
「想像ラジオ」とは想像の電波に流れてくる死者の声のようです。
死者の声に耳を傾ける、というのはどういうことなのでしょうか?
第2章では、死者の声をめぐる生者の会話が綴られます。
ある人は
と言い、
またある人は
と言います。
東北の震災後のボランティアの帰りの車中での会話です。
私にはどちらも正しく聞こえます。
おそらく作者も二つの価値観に正否の判定をつけられない、と考えているのだと思います。
にもかかわらず、作者は死者の物語を書かなければならなかった。生者として想像するしかない死者の声の物語を。
その理由は、「想像ラジオ」に寄せられた、缶詰め工場で働く若い女性のメッセ一ジが端的に表していると思います。
それは、メッセ一ジというには少し長い、その女性の
「想像ラジオ」とは想像の電波に流れてくる死者の声のようです。
ある人は
亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱している。
またある人は
亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか。
東北の震災後のボランティアの帰りの車中での会話です。
おそらく作者も二つの価値観に正否の判定をつけられない、と考えているのだと思います。
にもかかわらず、作者は死者の物語を書かなければならなかった。生者として想像するしかない死者の声の物語を。
それは、メッセ一ジというには少し長い、その女性の
自分が考えるうちで一番退屈な普通の、でもなんか愛すべき一日
を綴ったものでした。
死者に声があるとするなら、そうした平凡な日常への哀惜であろうし、復興というなら、そうした日々を回復させること、それを置いて他にないのだ、と言っているのだと思います。
ごく当たり前のことのようですが、しかし、震災後様々な現実的課題を解決するにあたって、私達はこの死者の視点を見失いがちになっているのではないか、そうした危機感が作者にこの作品を書かせたのではないでしょうか?
死者に声があるとするなら、そうした平凡な日常への哀惜であろうし、復興というなら、そうした日々を回復させること、それを置いて他にないのだ、と言っているのだと思います。
ごく当たり前のことのようですが、しかし、震災後様々な現実的課題を解決するにあたって、私達はこの死者の視点を見失いがちになっているのではないか、そうした危機感が作者にこの作品を書かせたのではないでしょうか?
死者とともにこの生を歩んでゆこう、死者の声が、ラジオのDJト一クのように聞こえてきたら、涙乾かぬまでも、もう一度日常を取り戻せるのではないか、想像してみよう、旅立った人達の声を、作者が、否、主人公DJアークがそう言っているように聞こえました。