私達は常々自分の内面と向きあっているわけですが、よく考えると、他人の存在なしには、自分の内面というのも存在しないような気がします。言い換えれば、常に私達の内面には、他人が入り込んでいる、若しくは、私達は常に自分の内面に他人を取り込んでいる、のではないでしょうか?
この小説は、主人公リンデの内面を追った一代記です。しかし、描かれるのはたった6日間です。
最初に登場するのは、高校に入学したばかりのリンデです。いつもお昼に一緒にお弁当を広げる友達2人とボーリングをしています。
まだ入学したばかりで、それほど親しくありません。リンデは2人に告白しなければならないことがあります。大人からしてみると、或いは自他の関係性にそれほど頓着しない性格の人から見ると、それは大した悩みではないし、悩むこと自体理解できないかもしれません。しかし、この3人にとっては、とても重要なことなのです。
リンデがいましようとしている選択は、一面自分に正直であろうとすることである一方、人間関係でより傷付くことがないようにという一部自己欺瞞を孕んだ選択でもあります。平たく言えば、大人に一歩近づくのです。
リンデは二人に手紙を書きます。
この小説は、各章毎に、16歳、28歳、34歳、47歳、3歳、63歳のリンデが順番に登場し、それぞれの1日が描かれます。
16歳のリンデは、一緒にいたいと思える誰かと出会えることを信じています。しかし、そうして取った行動は、47歳のリンデが、周囲の友人達との間に築いている、当たり障りのない交際と、本質的に同じもののようです。
違うのは、おそらく16歳のリンデが書いた手紙を、47歳のリンデ自身忘れてしまっているであろうこと、たとえ覚えていても、それは羞恥と後悔なしには思い出すことができないであろうということです。
それでも47歳のリンデは、ジョウさんという男性に、一瞬の期待を持つのですが、自分の離婚経験もあり、他人を理解し受け入れることの不可能性を見てしまいます。
結局、いつも一緒にいたい相手は、63歳のリンデが、宅配便の配達係とする空想の会話の中にしかいません。
63歳のリンデは言います。
そこには誰もいないのです。
私達は孤独にならざるをえないのでしょうか?それは、どこかの時点での単なる選択の問題だったのでしょうか?
ひょっとしたら、私達は、他人の中に宿された自分の面影を、肯定するところから始めなければならないのかもしれません。果たしてそんなことが可能でしょうか?
私達に、自分を好きになる方法が、果たしてあるのでしょうか?
私達は、自分の中で自分にとって好ましく飾られた他人の面影を、勝手に愛しているのではないでしょうか…?
それに気付いたとき、人は孤独の中に自分を発見し、ようやく自分にやさしくなれるのかもしれません。
まだ入学したばかりで、それほど親しくありません。リンデは2人に告白しなければならないことがあります。大人からしてみると、或いは自他の関係性にそれほど頓着しない性格の人から見ると、それは大した悩みではないし、悩むこと自体理解できないかもしれません。しかし、この3人にとっては、とても重要なことなのです。
リンデがいましようとしている選択は、一面自分に正直であろうとすることである一方、人間関係でより傷付くことがないようにという一部自己欺瞞を孕んだ選択でもあります。平たく言えば、大人に一歩近づくのです。
まだ出会っていないだけで、もっといい誰かがいるはず。ほんとうに、お互い心から一緒にいたいと思える相手が、必ずいるはず。私達は、その相手をあきらめずに探すべきだと思う。
違うのは、おそらく16歳のリンデが書いた手紙を、47歳のリンデ自身忘れてしまっているであろうこと、たとえ覚えていても、それは羞恥と後悔なしには思い出すことができないであろうということです。
ほんの少し、こっちの景色はどうなんだろうって興味をもっただけ
戻れないなら、最初に教えてほしかったわよね
こんなふうに知らない小道を発見して、幸せだと思えれば、他に何もいらないのかもしれないわね
ひょっとしたら、私達は、他人の中に宿された自分の面影を、肯定するところから始めなければならないのかもしれません。果たしてそんなことが可能でしょうか?
私達は、自分の中で自分にとって好ましく飾られた他人の面影を、勝手に愛しているのではないでしょうか…?
それに気付いたとき、人は孤独の中に自分を発見し、ようやく自分にやさしくなれるのかもしれません。