筒井康隆・著『聖痕』

聖痕                                 

主人公の葉月貴夫はとても美しい男の子に生まれつきました。しかし、その美しさゆえに、変質者に目をつけられ、5歳の時に性器を切り取られてしまいます。
タイトルの聖痕とは、つまり切り取られた部分を縫合した痕です。
 
もともとは朝日新聞に6カ月に渡って連載された新聞小説です。
 
小説の中の時間は、1970年代半ばに生まれた主人公の、東北の地震後までを描いています。
 

何よりもあいつの性的な欠陥が多くの人に知られることだけは避けなければ

 
主人公の祖父をはじめ家族は、主人公が無茎になったことをひた隠しに隠します。
 
しかし、美しい少年には、男も女も性的に吸い寄せられます。性的本能をなくした主人公は気が休まりません。
更には乱暴者の弟に、その秘密を知られるところとなっては…。
 

根源より断ち切られた快楽を覚えぬ身なるが故に聡明ならざるを得ぬ我にとって食は唯一の快美なり

 
性的な欲求から生涯解き放たれた主人公は、味覚の中にその欲求の全てを投入するようになります。
 
大学では食品科学を学び、食品会社に就職しますが、やがて味覚と料理の腕を生かしてレストランを始め、成功します。
 
この小説の特徴のひとつは、文章が大変読みにくいことです。章の書き出しに文語文が混ざります。
そして、どういう基準かわかりませんが、(たぶん)一般にあまり馴染みのない単語が随所に出てきます。見開きの左端に注が付いているので、意味はわかるのですが、読み辛いです。
また、馴染みのない単語の多くが後に続く言葉の枕詞だったりします。
 
著者の意図したところはわかりませんが、私が推察するに、1970年代から2011年現在までの文化と世相を、小説の中に封入したかったのではないでしょうか?
それなら現代一般的に使われている言葉を用いるべきだ、という考えもありますが、それは凡百のテキストに任せるとして、絶滅危惧種の言葉を、魚拓や剥製のようにではなく、生きた言葉として採取しているのではないか、と…?
しかし、ここで疑問に思うのは、
「合コン」→「合懇」
「マッチョ」→ 「松千代」
「トリップ」→「鳥舞」
といった書き換えを意図的に行っていることです。
言葉遊びなんでしょうか?
 
世相ということでいうと、主人公が開くような新参の高級レストランは、確かにバブル期によく流行ったと思います。ただ主人公の店は、高級感だけの偽物ではなく、本物の味を追求し、バブル後も順調なようです。
しかし、主人公の父の経営する葉月衣料株式会社は、バブルこそもちこたえるようですが、ユニクロのような新鋭企業の低価格勝負に負けて黒字倒産してしまいます。
 
物欲、金欲、征服欲といった生の根元に、著者は性衝動を見ているようです。
 
主人公は人と争わず、邪淫とは無縁ですが、周囲の人々の欲を、交通整理のように捌きます。
 

社長にしろ専務にしろ倫理道徳を超越して男性の本能を衝く自分の提案には自己弁護も正当化も容赦なく封殺され忘却されるのだ。貴夫は俗客の謂う善悪から解き放たれているおのれを自覚して爽快だったし、さらには四人の人物をもその世界に嚮導し、二人の夫を外狂いに走らせたのだった。

 
主人公を慕って食品会社に入社した女性達が、主人公の仲介で会社の社長や専務と愛人契約をします。これをまるで風流ととらえるような書きぶりでしたが、主人公の娘として育てられる年の離れた妹に、
 

お父さんはなんでうちの女の人たちとお客さんとが二階であんなことするのやめさせないの。あれ、よくないことじゃないのかしら

 
と言わしめて、辛うじて正邪のバランスを取っているようです。
 
ちょうど小説で描かれている頃だったでしょうか、愛人バンクというのが問題になったのは。
小説の中では援助交際といっていますが、援助交際という言葉は今ではまた別の意味を持っていて、ちょっと作者の意図しているところが見えづらいです。
 
源氏物語の頃は性愛におおらかでした。現代は男女の自然な性衝動を封印し、性的に貧しすぎる。さりとてビジネスとして男女の仲を取り持つことはそれはまた非人間的である。正邪の向こうにある豊かさの中へ、自然に行き渡ることはできないものか…と、そんなことを言いたいのでしょうか。
 
私はこの小説にはまだ先があると思います。そしてその先は決して書かれることはないでしょう。
私達は振り子のように正と邪の間を揺れ動いています。決して、主人公のようにその中間で止まることはできません。人を愛するとき、そこには正も邪もありません。しかしその愛は、正か邪のどちらかなのです。作者は、そのどちらか一方をではなく、その全てを肯定するために、聖痕を持つ主人公を創造したのだと思います。
人類がゆっくり後退することを余儀なくされるとするなら、私達はこの小説の続きを、その聖痕に照らしてどうあるべきか、私達の欲望のどうあるべきかを、考えてゆかなければならないのだ、と言っているように思います。

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One Response to 筒井康隆・著『聖痕』

  1. 吉田 薫 says:

    筒井氏は大阪の船場の中大江小学校と、東中学校を卒業されていますが、私の大先輩だったのだ、と今頃気づきました。そのころにはまだ作家デビューをされておられなかったのでしょう。「聖痕」ってあまり話題にならなかったのは、あまりにもエゲツナイ内容だからでしょうか。。。
    図書館で借りてきます。
    大、大、ファンです。私も「脱獄たんぽぽ」という小説を大阪の竹林館からだしたのですがあまり売れません。
    どこかに応募すれば良かった、と後悔しきりです。。。。

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