マーギー・プロイス・著『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』金原瑞人・訳


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ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂      


米国人作家によるジョン万次郎の物語で、原題は『 HERT OF A SAMURAI 』です。
 
ジョン万次郎が、江戸時代の漁師で、乗っている船が漂流して米国の船に助けられて米国へ渡った日本人である、という事実は、日本人のほとんど誰でも知っていることだと思います。
 
ジョン万次郎が助けられたのが米国の捕鯨船で、
例えばペリー提督の黒船が来て日本に開国を迫ったのが、日本に捕鯨のための補給基地を確保するため、
という側面があったとするなら、
加えて捕鯨が鯨油の採取という資源獲得を目的とするものだったことを考えると、
日本の一地方の漁師といえど世界経済の大きな潮流に巻き込まれるのは、ある意味歴史の必然で、
そうであるなら、日本人から見たジョン万次郎よりも、米国人から見たジョン万次郎の方が、より当時のリアルを再現できるのかもしれません。
 
そのひとつの証左として私が挙げたいのは、世界経済のうねりとは矛盾するようですが、作者がジョン万次郎にサムライ魂を見ていることです。
 
ジョン万次郎は、幕府より苗字帯刀をゆるされ、事実として武士となっているわけですが、日本人の心中としては、侍「中濱万次郎」を、その漁師という出自故に一段低く見る気風があるのではないでしょうか?
 
5人の漂流者の中で、万次郎はただ一人米国の西海岸まで行きます。そこで米国人の養子となり、学校へ通い、農場ではたらき、樽職人に徒弟奉公し、捕鯨船に乗り、カリフォルニアに渡り、鉄道に乗り、砂金採掘をします。
これらのことは、もちろん偶然のきっかけがもたらしたことが多々あったとしても、万次郎の個性の中に、ある種特別なものがあったと見るべきで、作者はそれを、サムライ魂とみたのではないでしょうか。
 
漂流した日本の漁船が米国の捕鯨船と出会うのが、当時のリアルにおける必然であったように、万次郎の米国漂流とも言える軌跡は万次郎自身の個性によって生み出された必然でありリアルであった。
米国人作家マーギー・プロイスは、そこのところを曇りなく公正に評価していると思うのです。
 
万次郎が侍に取り立てられたのが、幕府の都合による(それもひとつのリアルですが)ものだとしても、作者が万次郎に見たサムライ魂の評価を下げる一片の理由にもならないでしょう。
作者は、漂流者万次郎の中にheart of a samurai を見たのだと思います。
 
作者は、当時の米国において万次郎に向けられた人種的偏見や、捕鯨に見る環境問題にも公正な目を向けます。
自国の歴史の、或いは米国社会の負の断面を、自省的な公正さをもって描いています。
 
ジョン万次郎は何かを成し遂げたヒーローではありません。
しかし、漂流して米国に流れ、帰ってきたら英語が話せるというだけで侍にまで取り立てられた一漁師、というのでもないと思います。
 
ジョン万次郎をどのように位置づけるか、ということは、ひょっとして私自身の公正さを試されているのかもしれません。
私は自国の社会や歴史に対して公正であることができるだろうか?異文化からの来訪者に対し、公正な態度で臨むことができるだろうか?
 
誇りある謙虚さ、矜持と寛容とを失うことはないだろうか、もう一度わが身を振り返り考えてみたいと思いました。

Heart of a Samurai ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)

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