人生っていうと大げさですけど、私達の生活に、 友情や絆や、和解や確執という言葉って、頻出語句ではないと思います。寧ろ馴染まない…。
でも私たちは、ある瞬間を「友情」と名付け「絆」と名付け「和解」とも「確執」とも名付けているわけです。
そうすると刹那の折々が特別な意味を持つような気がして。
でも、刹那の折々が特別な意味を持ったとしても、それは、人生全般に特別な意味付けをするわけではありません。人生とは、そんなこんなを含めた、遠く長い道のりのようですから。
この小説には、友情も絆も和解も確執も出てきません。
主人公は小学5年生の男の子で 母親と2人でアパートで暮らしています。しかし、母親の仕事の都合で古くて大きな、テレビで見たことのあるだれかの田舎のような昔ながらのうち
ぼくはいつだって、まぬけなクラスの一員でしかなかった。クラスメイトには、ぼくは、なんの取り得もなく、目立つことのないさえない男の子という認識しかなかったと思う。
しかし、そんな主人公に、後ろの席の押野という元気のいい少年が、放課後主人公を野球に誘います。
そしてその押野は、主人公の忘れ得ぬ友達になるのです。
読者は、主人公と一緒にキョトンとするばかりです。
私は、小学生が友達になるきっかけって、たまたま席が前後してただけとか、そんなことからかもしれないな、ととりあえず納得して読み進めました。
しかし、長じて大人になった主人公は述懐するのです。
ぼくはいつでもすぐに押野を思い出せる。退屈している人やさびしそうな人に敏感で、その人にぴったりな話題を見つけては自分の元気を惜しみなくあたえる押野。何年たったって、押野の資質は変わらないだろう。
この小説は、そんな痛みに溢れているのです。
ぼくは時おり、あのころのことを丁寧に思い出す。降りはじめた雨がしみこんでゆくときの土の匂い。記憶はつぎからつぎへとカードがめくれるようにわいてきて、あの、はじまりの夏を思い出させてくれる。ぼくはいつだってあの日に戻れる。
人生は劇的ではないと思う。
でも、平凡ではあるけど、驚きや発見や知らないことへの期待と不安や少しの悲しみを含み、尚且つ自分の意志ではどうにもならないことばかりの小学5年生の夏が、今に続いているとするなら、
おじいさんといっしょに過ごした日々は今のぼくにとっての唯一無ニの帰る場所だ。たれもが子どものころに、あたりまえに過ごした安心できる時間。そんな時がぼくにもあったんだ、という自信が、きっとこれから先のぼくを勇気づけてくれるはずだ。
ぼくは縁側に座って、水まきあとの土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。そうすると、ぼくはいつだってあのころに戻れるし、今の頼りない自分ですら誇りに思えてくるのだ。人生は劇的ではない。ぼくはこれからも生きていく。
そうした痛みは、ともすれば、あれさえなければ、あのときこうであったなら、と考えても仕方のない堂々巡りをし、果ては今ある生活や自分をすら否定的に考えてしまう、そんなことがあるのではないでしょうか。