全部で4章に分かれた長編です。各章が独立しているわけではないのですが、各章毎に語り手が変わります。
第一章では長女、第二章では次男、第三章では次女が、それぞれの主観で見た家族の出来事について語ってゆきます。
当然ひとつの出来事に対して、各章で兄弟それぞれの視点から語られ、エピソードに深みを与えます。
また、兄弟それぞれの、主には恋愛なのですが、物語があって、長編の仕掛け上分割することはできなくても、各章毎に味わいのある作品となっています。
そして第四章、一人称小説だと思って読みはじめると、どうも勝手が違います。そうか、まとめの章だから三人称になるのか、と思って読んでゆくと…!
物語は、郊外の瀟洒な一戸建てに住む家族のお話です。
再婚同士の夫婦で、妻には息子と娘が、夫には息子が、そして夫婦には娘が生まれ、6人で新しい家族を作ってゆきます。
満ちたりている故に少しばかり退屈な家庭。私たちは、その中にいる自分たちを贅沢だと知っていた。
そんな家庭を、ひとつの死が襲います。
全員で身も蓋もなく嘆き悲しむことだけに時間を費やした。それが許される唯一の場所として、この家があった。
やがて、澄川家は、なだめられた悲劇を隠し持ちながらも再生した
しかし、母親はその悲嘆から逃れることができず、アルコール依存症になります。
ひとつの死が母親の喪失をももたらし、子供達は、それぞれに死と母親不在の影響を受けて育ちます。
長女は、大切な人を失うことを恐れて男性と深く付き合おうとしません。
次男は自分のあるがままを受け入れてくれる年上の女性を刹那的に愛します。
次女は、「自分が死んだら、この人はどうなるんだろう、と思いを馳せる側の人間に」なりたい、と恋愛に邁進します。
三様の愛のあり方が描かれます。
この小説は、家族小説であり、恋愛小説であり、死を起点とした生についての小説と言えます。
つまり、人生においては、それらが表現しようとすることを別々に取り扱うことはできない、ということなのだと思います。
小説冒頭の「人生よ、私を楽しませてくれてありがとう」という言葉は、どこか浮薄であるように感じると同時に、不穏な響きを残します。私達はそれほど人生が平坦でないことを知っているからです。
幸せの絶頂にあると実感できるときでさえ、幸せを演じている自分を冷静に見つめる自我が、その空虚さ、或いは危うさを注意深く窺っているような気がします。
避けられない死が、私にも、そして誰のまわりにもついてまわっている以上、死による喪失体験は避けられないものでしょう。
であるなら、そのような人生において人を愛するということは、その喪失も前払いで引き受けることに他ならない。
そういった覚悟からスタートするなら、「かわいそう」と「ありがたい」が連続するこの生を、最後の最後に「楽しませてくれてありがとう」と言って結ぶことができるのではないでしょうか。
【皆さんの感想】
miwa様の感想
http://midnightsodapop.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
Reiko Yuzuriha様の感想
http://onasunnyday2012.blog.fc2.com/?no=161
人を愛することは、喪失を前払いで引き受けること。確かにそう思います。
「人生よ、私を楽しませてくれてありがとう」という言葉は、そういったことを知った上での言葉なのでしょうね。
コメントありがとうございます!!
「人生よ、私を楽しませてありがとう」という言葉は、人生の軽みと深さを端的に表わしてると思いました。