小説は、ある時間のある場所を切り取って、そこに生きる人を描きます。当たり前のことではあるのですが、ある場所のある時間を切り取ることは、二義的な要素で、一義的には描き出された人物によって、時間や場所を越えた普遍的な人間の営みを抽出し提示するのが小説だと思います。だから、遠い外国の文学であっても読む価値があるのだし、その時代やその土地の知識がなければ理解できない、ということはないのだと、常々思っています。
伯父の俳諧の師匠をしている蘿月が母子を訪ねるところから小説は始まります。時代は明治の後半です。
作家はまず始めに伯父の蘿月を登場させ、今戸とは隅田川対岸の小梅瓦町から今戸まで歩かせます。
今はビルに囲まれて目立ちませんが、かつては聖天様のお山がこんもりとして望まれたようです。
その当時は、言問橋はなかったようです。
今は地中の山谷堀が隅田川に合流する場所は、現在広場になっており、隅田川を挟んでスカイツリーを望む格好の場所となっていますが、その広場の片隅に「竹屋の渡し跡」の碑があります。
この小説は、紀行文では決してないのですが、作家は登場人物達をよく歩かせ、その頃の隅田川べりの街や習俗を活写しています。
お糸は16歳ですが芸妓の道に入ります。幼なじみとの淡い恋人ごっこは卒業のようです。
長吉にはそれがわかりません。
勉強して大学へ行くことにも、意義を見出せず、やる気が出ません。
そんななかで役者になることを夢想します。
春の末から夏の始めにかけては、折々大雨が降つづく。千束町から吉原田圃は珍しくもなく例年通り水が出た。
私がここに住んだ10年余、そういうことは1度もないので。
変わってゆくものの中に変わらぬものを置いてみること、小説とは端的にいうとそういうものかもしれません。
それはまた、スマホを片手に隅田川べりをジョギングをする私も同じです。
少しく心に痛みを感じつつ、長吉に哀れみと同情を感じる姿が重なります。そして、それは畢竟、生きることへの強い肯定でもあるのです。





