森鴎外・著『高瀬舟』

 



山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)  

高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。

 

小説は、罪を犯し遠島になってこの高瀬舟で運ばれる、一人の罪人の身の上話です。

 

高瀬舟で運ばれる罪人には護送の同心が付きます。その同心が罪人から話しを聞く形で物語が進行します。

 

通常は、身内の者一名の同行が許されるのですが、その喜助という罪人には付き添う者がありません。

同心羽田庄兵衛は、喜助の表情を見て不思議に思います。

 

喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気兼ねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われた

 

そこで庄兵衛は喜助に話しかけます。島へ行くことが苦にならないのかと。

 

これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣って下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖む所ではございますまい。

 

喜助は辛い半生を生きてきたようです。更には、罪人は島流しに際して200文のお金を支給されるのですが、そのお金をとてもありがたがっています。

 

骨を惜しまずに働きました。そして貰った銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。

 

罪人として捕らえられ、食事を与えられて更にお金までもらえたと言って喜んでいるのです。

 

庄兵衛は我が身に引き比べて思います。この罪人の身と自分との間にどれほどの違いがあるのかと。

つまり、同心として得る扶持も、生活を立てるために右から左へと消えてゆく。

この罪人は200文を給付されて満足を得ている。然るに自分は、例え生計の余裕を見て更に蓄えがあったとしてもそれで満足することはないだろう。

200文で満足する罪人と、いくらもらっても満足できないであろう自由の身である自分と、果たしてどちらが幸福であろうか、と。

 

それではいったいこの罪人はどんな罪を犯したのか。

庄兵衛は喜助からその犯した罪について聞くのですが、それは単なる興味本位ではなく、また役人としての評定とも違う、自分の人生の対照としての誠実な関心からのようです。

 

喜助は実の弟を殺したことを語ります。

喜助は弟の自殺を結果として助けたに過ぎません。これが殺人といえるのか。

 

庄兵衛の心の中には、いろいろに考えて見た末に、自分より上のもの判断に任す外ないと云う念、オオトリテエに従う外ないと云う念が生じた。

 

病気の弟が兄の面倒になるのを厭い、のどに剃刀を当てて自殺をはかった。しかし死に切れず首に剃刀刺したまま苦しんでいろところへ喜助が帰ってくる。苦しいから殺してくれと懇願する弟、兄はその剃刀を引き抜いてやるのだが…。

 

苦しんでも治療を続けるか、楽に逝かせるか、今をもって難しいこの問題に、答えは出ないようです。

 

ただそれを罪として蕭然と受け入れ、喜助は流されてゆくのです。

 

次第に更けて行く朧月夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。

 

結末が重く深く心に残ります。

 

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島崎藤村・著『破戒』

破戒 (新潮文庫)   

破戒――何という悲しい、壮しい思想だろう。

 
主人公は師範学校を卒業して学校の先生をしています。高等小学校の4年を受けもっているということですから、今なら中学くらいでしょうか。
また、師範学校というのは官費で勉強できたようで、年季が明けなければ教員をやめることができない、というようなことが書かれています。
 

見給え、あの容貌を。皮膚といい、骨格といい、別にそんな賤民らしいところが有るとも思われない。

 

もしそれが事実だとすれば、今まで知れずにいる筈も無かろうじゃないか。最早疾に知れていそうなものだ――師範学校に居る時代に、最早知れていそうなものだ。

 
主人公の丑松は被差別部落の出身なのです。しかし、父親の「隠せ」という戒を守って生きてきました。
 
物語は、丑松の下宿から、一人の被差別部落出の人が、その出自を理由に退去させられるところから始まります。
丑松にとっても他人事ではありません。まだ身元が知られていないながらも、心中穏やかではありません。
彼は逃げるようにして下宿を移ります。そのことが後半、疑惑のひとつになるのですが…。
 
被差別部落とはいったいどのようなものであったか、作中であまり詳しく語られることはありません。
ただ、丑松の父親は放牧牛の牧童をしているのですが、牛に角をかけられ亡くなり、その父を殺した牛の殺処分に丑松達が立ち会う場面で、牛を解体する職人達がでてきます。彼らは被差別部落の人達で、その出自を隠している丑松の胸中は複雑です。
 
人は殺生を忌み嫌いながらも、他の生命の犠牲なくしては生きられず、しかして動物の殺生に関わる人々を低く見て蔑んできたのです。
 
丑松はどこにいても心休まることがありません。
 
小説中、被差別部落の人達を「新平民」と呼んでいることに、明治時代のこの差別に対する重層的な欺瞞がよく表れていると思います。
 
丑松が「新平民」であるという噂が、思わぬところから漏出します。
教員仲間でもその話題が話に上ります。
丑松の親友は、そんな馬鹿なことはない、と丑松を庇ってみせるのですが、それが酷い差別意識に基づいたものだと気づきません。
 

新平民か新平民でないかは容貌で解る。それに君、社会からのけものにされているもんだから、性質が非常に僻んでいるサ。まあ、新平民の中から男らしいしっかりした青年なぞの産れようが無い。

 
だから丑松が被差別部落の出身などということはない、というのです。これでは本当のことなど言えるはずもありません。
 
しかし、丑松は本当のことを打ち明ける決心をします。即ち「破戒」です。
 
出自を打ち明けること、それが社会的に抹殺されることを意味する。
丑松の父は、子供の幸福を願い、過去を消し、隠れるようにして山の生活を選び、息子に「隠せ」と戒めを与えた。
息子はそれを一生懸命守る。しかし、隠して生きていたとしても、結局は人が自然に受け入れる楽しみや幸福を、自分には予め禁じられている。そのことに変わりはない。見せかけのアイデンティティーと自我の狭間がそれを教えるのです。
 
そのような内面の苦しみを抱えた丑松は、下宿のおかみさんやその養女、そしてまた、思想家の猪子との接触を通じて、人の営みの根元的な哀しみと、それらの人達のしなやかさを見ます。
 
ただ、丑松の告白の重みは、社会基盤を失うことを意味します。
 
藤村が用意した結末は、丑松の苦悩に付き合ってきてほっとすると同時に、根本的な差別の問題に解答を出していないようなもどかしさが残ります。
 
小説の一遍では解決することのできない深さと複雑さがあるのだと思います。
しかし、この一遍を書くことにこそ、意味があったのではないでしょうか?殊に、「新平民」の如き表現の欺瞞は、小説の中に永久保存する必要があった、今回初めて「新平民」という言葉を知った私には、そう思えました。
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三島由紀夫・著『憂国』

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)   
登場人物は夫と妻の二人です。
短い小説ですが四つに分かれています。各章は
「壹」「弐」「参」「肆」
と表記されており、暗示的です。
参まではササッと読み進めたのですが、肆に至って、通勤電車の中でちょっと読んでは本を閉じ、手でロを押さえたり、辺りを見まわしたりなどして気持ちを落ち着けながら読み進めました。
 

新郎新婦の記念写真を見せてもらっただけの人も、この二人の美男美女ぶりに改めて感嘆の声を洩らした。

 
二人は結婚して半年です。
夫は帝国軍人で中尉です。
 

この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた

 
『潮騒』における新治と初江のようです。
 
しかし、昭和11年2月26日、いわゆるニ・二六事件が起こります。夫は仲間の企てを知りませんでした。仲間が、結婚したばかりの友を慮って、誘わなかったのだと思われます。結果、敵味方となって銃口を向けあうことになりますが、事件から3日目、にらみ合いの続く中、夫は一時帰宅を許されます。
 
自分の外にある恩寵と、自分の内にある意志とそれを遂行する力。
描こうとしたところは『潮騒』と同じようです。
しかし、『潮騒』では描かれなかった部分があります。
『潮騒』では新治と初江は肉体的に結ばれていません。
恩寵に満たされた神話的な調和と、男女を結び付ける肉体的なつながり、平たくいえば肉欲との整合性について、作者は説明する必要性を感じていたのかもしれません。
この美しき世界を作家が文学的に再構築するにあたって、その身体性を精神性の高みに持ち上げる必要があったのだと私は思います。肉体とはなんと重く厄介なものでしょうか。
 
さらに、この小説は、身体性を精神性の高みに昇華するその道の険しさを、自死の苦痛によって描きます。
 
崇高とか高邁とか、精神性の高みを美しく表現することは容易です。しかしそこに至るための肉体的苦痛、また即物的に美しくない在り様、神々の恩寵に与った美しい調和の世界にあっても、私達の生きるこの道は、粗末であったり薄汚かったり醜かったりすること、そしてそのことのもたらす苦しみに、日々あふれているのです。そのことから目をそらすな、作者はそう言っているように私は思います。
精神性の高みに、神々の恩寵の真髄に行き着くためには、私達は美しい肉体に苦痛を与え、醜く変容させることでしか辿り着くことが出来ないとしたら…美しく生き、美しく死ぬことのむごたらしさを示して、そのことの覚悟につりて問いただされている、私はそのように感じました。
 
私に切腹は…無理だと思いました。

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