山田詠美・著『ぼくは勉強ができない』

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ぼくは勉強ができない (新潮文庫)                                 
私は高校時代、この小説の主人公のようには、格好良くありませんでした。
健康ではありましたが、身体の健全さをアピールする何物をも持ってはいませんでした。
内面的には拡大する自我に押しつぶされそうになってました。他人との距離感がうまくつかめず、殊に異性に対してはどう振る舞っていいかわかりませんでした。
 
主人公の時田秀美は高校生の少年。小説はクラス委員長を決める選挙からはじまります。
 
この小説は短編連作の形になっていますが、全体を通して、主人公の成長の物語として読むことができます。
 
主人公は勉強はできないけど、クラスの女の子に人気があり、年上の彼女がいて、サッカ一部に所属しています。
クラス委員長はクラスで一番成績はよいが女の子にはモテない脇山が当選します。主人公は3票差で書記になります。
 

大学を出ないとろくな人間になれない。脇山は、何の疑問も持たない様子で、そうロに出した。何故なら、そう教える人間たちがいるからだ。いい顔になりなさいと諭す人間が少な過ぎるのだ

 
主人公は幼なじみの女の子をけしかけて、脇山にいたずらを仕掛けます。
 
主人公は皮相的な常識や決めつけにとらわれないおおらかさを持っています。
 
作者の創出した主人公は痛快に脇山のような型にはまった人間をやっつけますが、
この主人公の愛すべき点は、

常識にとらわれず自分の価値観を大事にし、
なおかついい顔をしている、
ということだけではありません。
寧ろそれだったら鼻持ちならない傲慢な若者でしょう。
 
主人公はまたよく考え内省をするのです。
 
脇山の常識と、自分との間にあるものを見極めようとします。
意識の高い若者にありがちな、

自分の価値観や正義感を無闇に周囲にバラまいて他人を否定する

というようなことはしません。
 
母親や祖父、担任や、年上の彼女のような、自分が好ましいと思える人からよく学び、また、脇山や他のクラスメ一トの行動から、自分を深めるきっかけを見出してゆきます。
 
脇山や他のクラスメ一トも、互いに影響しあって成長しているのでしょう。時に残酷に傷つけたりしても…。
 
そんな吸収力の高さこそが10代の良さだし、「僕は勉強ができない」と開きなおることもできれば、「僕は勉強ができる」と自分の可能性の扉を自ら開くこともできるのだと思います。
 
途中、太宰治の『人間失格』を下敷にした箇所があり、あらためてまた読んでみたいな、と思いました。葉蔵と秀美の自意識とその行動の比較は興味あるテーマです。
 
葉蔵の自意識とその煩悶の救いのなさに、かつて高校生の私は何度も本を閉じたものでしたが…。

 







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赤坂真理・著『東京プリズン』

東京プリズン                                 

東京裁判をやり直せるとしたら…歴史にもしもは禁物です。

しかし、そもそも勝者が敗者を裁いた極東軍事裁判は公正といえるのか、戦犯として裁かれた人達は、本来裁かれるべきだったのか、戦後史にこうした疑問をはさむと、畢竟「天皇に戦争責任はあったか」という命題にぶつからざるを得ません。
 
太平洋戦争の終結から半世紀を経てもなお、私達日本人には、やり残しの宿題があるように思われます。
 
主人公はマリという女性です。15歳でアメリカに1年間留学します。
現地の高校で進級の単位取得のために日本を紹介する、ということになりますが、能や歌舞伎の紹介ではなく、「天皇の戦争責任」についてディベートを行うことになります。
しかも、戦争責任は「あった」側として。
 
マリの留学は1980年代の半ばですが、40代半ばとなった現在のマリも登場します。
 
バブルとその崩壊、失われた10年、サブプライムとリーマンショック、そして震災…。
作者がなぜ、今、東京裁判に向きあわなければならなかったか、この30年を振り返るとなんとなくわかる気がします。
 
いまだに戦後が終わっていない。
 
経済が先行し、国は豊かになったといいます。しかしその豊かさは山を削り海を埋め立て、せまい国土にひっかき傷を付けるようなやり方で成長し、その揚げ句誰かの財布が膨らみ勝手にはじけた。この即物的な繁栄は幸福なのか。物質的な豊かさとは裏腹に、生活に滲み出る虚無感はどこからくるのか?
 
天皇の戦争責任の有無を明確にしたところで、何かが変わるわけではないでしょう。それはつまりディベートの勝者がどちらになるか、ということにすぎないのですから。
 
しかし、東京裁判をひとつの歴史的事実としてなお、私達日本人はこの国土、そして天皇とは、ということから考えて、戦後の復興をしなければいけなかったのではないか…?
作者はそう言っているように思います。
 
マリは1年で留学を断念し、東京に戻ります。何とか学歴を中断させることなく復学し、その後の人生を可もなく不可もなく渡ってきたようです。
 
彼女にとって留学を断念せざるを得なかったディベートでの失敗は、日本の戦後に重なり、その後のなにか忘れものをしたような人生は、精神性を欠いた戦後の復興と重なります。
 
40代のマリは15歳のマリと交感し、再びディベートのステージに立ちます。
ディベートのやり直しが、あたかも東京裁判のやり直しのようです。
もしマリが、このディベートにより新たな地平を開くことができれば、その後の人生が変わるはずです。
 
もし、15歳のマリが、その後の人生を変えられたとして、1980年代以降、私たちはどのように生きられたでしょう。
これは、作者から私たちへ投げかけられた宿題ではないでしょうか?

 

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Henry James・著『ねじの回転』土屋政雄・訳

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)                                 

小説というのは、うそっこのはなしを、ほんとうらしく語ること、なわけですが、『ねじの回転』においてヘンリー・ジェイムズは、ほんとうらしさの演出を二重三重にしかけています。

物語は、イギリスの田舎の古い屋敷で、幼い兄妹の家庭教師が見た幽霊譚です。

幽霊譚ということは、既にこの話のうそっぽさを白状しているようなものなのですが、しかし、家庭教師の一人称で語られる物語を、ひょっとして家庭教師の神経衰弱かなにかによる幻覚と疑えば、この小説を全く違う物語として読むことができます。

また、そのための舞台装置として、この話は家庭教師の書いた手記で、クリスマスイブに怪奇譚を聞くために集まった「私」と友人達が、ダグラスという友人からその手記の朗読を聞く、という設定となっています。

虚構①の中に虚構②を置くことで、虚構①を現実らしく見せかけ、虚構①が現実であるなら、虚構②の幽霊譚にも現実的な事実を読みとるべきではないか、と思わせます。

物語は謎だらけです。なぞのひとつひとつがねじの一回転のようです。

幽霊は家庭教師にしか見えないようですが、妹のフローラにも見えているのかどうか、兄のマイルズにはどうやら男の幽霊は見えていないようですが、であるならなぜ寄宿学校を放校になったのか、兄妹の後見人が家庭教師に全てをまかせ、何があっても自分に連絡するな、と言ったのは、単に面到だからか他に事情があるのか、女中頭のグロースさんは何も知らないのか知っているのか、二人の幽霊は本当にいるのか、出てきた理由は何なのか…小説全体が謎だらけで、一読しただけでは取り残されてしまいます。フラストレーションがたまりますσ(^_^;

この小説は家庭教師による手記という体裁のため細部を詳述してくれません。謎を謎としたままグイグイと物語を進行させ、それなのにいつのまにか家庭教師の恐怖感を共有してしまっています。そして最後、ひょっとして家庭教師の方がおかしいんじゃないか、と読者が小説家のねらいに感づきはじめた矢先にあっと驚く結末です。最後のねじの一回転には不思議なカタルシスがあります。でも謎は全く解決していません。もう一度読んで自分で解決するしかなさそうです。それこそが、ヘンリー・ジェイムズが我々に仕掛けたねじの回転だったのでしょう。

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