高橋三千綱・著『猫はときどき旅に出る』

猫はときどき旅に出る                                 


主人公は、
 

作家兼脚本家兼映画監督兼劇画原作者兼誠実なる酔っぱらい人間

 
の楠三十郎という男です。作中、時間が前後して描かれるのですが、主には主人公が三十代、昭和で言うと50年代後半から60年前後のお話しです。
 
この主人公は創作の能力がありますが、人間としてはダメなようです。一児の父親でありながら家族を一顧だにしません。
それでも、打算のないところ、自分をよく見せる偽善も、また悪ぶって自分をひけらかす偽悪とも無縁であるところが、誠実と言えると思います。
 
たとえばそれは、第3部「野良猫のニューヨーク」の4「涙のピアス」での、ジョンとの挿話によく表れていると思います。
 
ジョンはたまたま主人公を担当したホテルのベルボーイです。ニューヨークへ行くつもりが、雪のため行先変更になってワシントンDCに降り立った主人公は現金の持ち合わせがなく、寝不足とアルコールの残った状態でそのベルボーイに寸借をします。
ベルボーイに町を案内させ夕食をおごらせ、更に酔っぱらい、挙げ句翌日迎えに来たジョンを詐欺扱いして股間を蹴り上げます。全くのダメ人間です。
3年後、2人はニューヨークで再会します。
そこでジョンが言います。
 

あたしがあのときなんで酔っぱらいの世話をしたか分かる?あんたがあたしにお金を貸してくれといったからよ。そんなことあたしに頼んでくれた人なんていなかったからさあ、嬉しかったのよ。かっぱらいはいたけどね。だからあたし一生懸命面倒みたのよ

 
ここだけ抜き出すと、なんかあり得ない話しにも、滑稽譚にも聞こえますが、作中、まさかの暴力や、契約社会であるがゆえのギスギスした人間関係やペテンまがいの甘言を見てきた読者は、そういうのって逆にあるかも、と納得させられてしまうのです。
もっとも楠三十郎のダメさ加減に端を発しているので、
 

平凡だが倫理観が強く、退屈と平和の区別もつかない輩

 
には体験できる世界ではなさそうです…。
 

己が胸の内に、夢とは表裏一体の危険を抱えている者こそ、生命の尊さを理解できるものなのだ

 
私はこの小説を、作家の珍道中を軽妙に語る筋立てだと勝手に思って読みはじめました。
 
確かに3章くらいまでは、不埒な作家の奇行譚的な感じが無きにしもあらずなのですが、4章の「虐待された仔犬を見て」でガラッと印象が変わります。日本的な情緒の通用しない、暴力のただ中に放り出されます。
 

どこの国の人か分からなかったけど、ニホン人だとは思わなかった。

 
一人で旅行をするニホン人てあまりいないから

 
楠三十郎はロサンゼルスのバーでウェイトレスからそう言われるのですが、彼が海外に出ても殊更卑屈にもならず、また殊更尊大にもならないのは、
 

物書きの父親を父に持ち、その高邁な理念をついに斟酌することもなく、息子は家からの脱走を何度となく試み、やがて脱走が旅になり、

 
その旅の延長線上に彼の人生が刻まれていることと、無関係ではないようです。
 
小説は三部にわかれています。
それぞれ中・長編小説として独立しても良さそうです。
実際、第1部が発表されたのが2001年なのです。
 
私が一番良いと思ったのは第2部「ぺンギンの後ろ姿」で、これが一番独立性が高いと思われるのですが、第1部が不完全に終わっている感があり、第3部を必要としていたのだと思います。
 
その不完全さの根幹は、ひょっとしたら2001年の9.11に関係しているかもしれません。大きな非日常的な暴力の前に、私達は暴力の底に普遍的に横たわるものを、或いは案外私達の生活の隣に存在する極地的ではあっても時として凶暴な暴力の蠢動を、正義対悪の単純な図式の中で、何かはき違えてしまっているのではないでしょうか?
情緒を差し挟む余地のない絶望、底辺の無感覚、澱んだ感情、容赦なき暴力、経済活動に名を借りた富の寡占と簒奪、それらと対極にあって無関係であるはずのものとの交錯、そこに生じる痛みと救いのなさ。

全体として大きなストーリーは展開しません。楠三十郎が、人生という名の旅において経験する刹那の寄せ集めです。
しかしその旅、或いは人生の断片の集積が、みごとに最後ジョンの涙の中に集約され慈しむべき命のきらめきを見せます。

希望と言うにはあまりにも小さな慰めを、私たちは第3部によってようやく見出し、またそのために10年余りの時間が必要だったのだと思い至るのではないでしょうか。

蛇足ながら、本書は、酒飲みに対しては、読んでいる間中痛飲の欲求を喚起する“悪書”です…!?

 

【みなさんの感想】
伊藤良徳様の感想
http://blog.goo.ne.jp/shomin-law/e/0c757cc2324eeaa6b77a64f93104736e?st=0

 

 

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プルースト・著『失われた時を求めて 3』高遠弘美・訳

失われた時を求めて 3: 第二篇「花咲く乙女たちのかげにI」 (光文社古典新訳文庫)                                 

長い長い小説 (全14巻) の第3巻です。
 
小説全体の構成からいうと、
第2編「花咲く乙女たちのかげに」の第1部「スワン夫人のまわりで」の巻
ということになります。
 
ようやく3巻目にして小説的な、読み物的な面白さが出てきました。
 
この巻では、語り手とジルべルトの、幼い恋の始まりからその終わり(?)までが描かれます。
 
その恋は、公園での陣取り遊びのような、本当に子供らしい遊びから始まります。
やがて、ジルべルトの母親であるスワン夫人のサロンに「私」は出入りを許され、そこで敬愛する作家と出会います。
 
10代の「私」はそろそろ将来の方向性を決めなければなりません。家族には外交官に、という希望があるようですが、本人は文筆の道にという希望があるようです。
その才能については、まだ文学好きの少年が好きな作家の真似をしているレベルを出ていないのですが、スワン夫人のサロンに出入りすることをもって、周囲はよい影響を期待し、本人はジルベルトと一緒にいられることの安逸さに、外交官も棒に振り、文筆の修行にも身を入れることができません。
 
「私」とジルベルトは、いわば両家の両親公認の仲になりますが、まだ若く楽しみの多い年頃のジルベルトにあっては、「私」の存在を疎ましく思うことがあり、ジルベルトに決定的に嫌われる事態を回避するために、「私」はジルベルトと二度と会わない決心をします。
 
こうしてあらすじを書くと平板です。
否、このあらすじを元に、イニシエ一ション小説や青春小説、或いは恋愛小説が書けてしまうのではないでしょうか?
 
それにもかかわらず、あらすじを書き出すと平板と感じてしまうのは、あらすじを覆い尽くす断片がこれでもかというほどに埋め込まれ、そのひとつひとつが豊穣な比喩に塗り込められているせいでしょう。
その断片とは、登場人物の内面の動きであったり、公園や馬車やドレスといった事物であったり、人と人、あるいは人と物の関係性であったり、言葉の流れに際限がありません。
 
私達の人生に、ストーリーはありません。あらすじと呼べるようなまとめもできません。あるのはまさに断片です。断片の連続、もしくは重なり合いこそが人生のようです。
登場人物の断片を語り手を中心として可能な限り集積し、人生の、或いは人の世の普遍的なるものを描く本作は、訳者の言う通り、あらすじを追うことには意味がないのかもしれません。
 
ときに晦渋な文章に難儀し、ときに(往々にして)倦みながら、読み進めてゆくと
 

幸福は、幸福そのものに対して無関心になったときに私たちの手に舞い込んでくる

 
だとか
 

そもそも人生のさまざまな状況のなかで、 恋愛に関わる出来事を考えたとき、一番いい のは理解しようとしないことだ

 
といった、思わずうなずきたくなるような言葉に出会います。
 
ちりばめられた断片を集めて整理してゆくと、語り手の、或いはスワンの、オデットの、ジルベルトの、その他登場人物達の人生が、 有り体に言うなら、それはあたかもジグソーパズルのように、 読者の頭の中に再構築されてゆきます。ひとつの時代のひとつの都市という、大変な壮大さをもって。
 
第1巻では何度か挫折しかかりましたが、今では私の貧相な脳に驚くべき時空が広がって、次のピースを待っています。

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早坂真紀・著『森の彼方に』

森の彼方に  over the forest                                 
物語の主人公は、映美という日本人の少女と、エイミーというイギリス人の少女ですが、生きた時代はエイミーのほうが100年ほど前です。
 
2人とも活発な女の子で、男の子たちと木登りもすれば虫捕りも平気です。
そして二人とも女の子らしさを求められることに子供らしい自然な反感を抱きます。
 
物語は日本と英国を舞台に交互に描かれます。
 
100年前のイギリスでエイミーは日本の浮世絵の描かれた屏風を目にします。そこには同じような服(着物)を着た男女が描かれていて、
 

「女だからって、スカ一トをはかなくてもいいの?女だからって、飾りのついたかかとの高い靴を履かなくてはいけないなんてこともないのね。男の人と区別しないなんて、なんて素敵な国なんでしょう!」

 
と幸せ(?)な誤解をして日本に憧れます。
 
一方映美は、エイミーが感じた女であるが故の不自由さを100年後の日本において同じように感じています。
 
映美は成長し、大学生になります。
生きた時代も国もまったく違う映美とエイミーですが、バラの花をきっかけとした不思議な邂逅をします。
 
この小説はファンタジ一小説ですが、女性の自立ということをテ一マにしています。
100年を隔てた少女の配置はなかなか効果的です。
 
50年ほど前にボーヴォワールが「人は女に生まれない、女になるのだ」と言いました。
100年前、50年前、そして現代と、時代も国も社会情勢も違うので、単純に「女性は」という比較も一般化もできませんが、通底する部分はたぶんあって、それが時代によってどのように評価されるのか、それを考えることが、その時代にあった自立?、ということになるのかもしれません。
「女性の在リ方」として絶対的なものって、あるのでしょうか?
 
本書には明確な答えが書かれていません。映美はまだ大学生です。自立にはもう少し時間が必要なようです。
 
感想文にあとがきの文章を引用するのはルール違反かもしれませんが、以下はあとがきの作者のことばです。
 

『男女雇用機会均等法』のなかった時代、私よりあきらかに能力が劣っていると思う人が、男というだけで肩書きが付く。しかし肩書きと共に責任も生じる。だったら女であることは時には楽かもしれないと思わせたのもそのころだ。そのあたりのことも、作品に織り込んだ。

 
この本を読んだ少女達は、森の彼方を夢見て、新たなエイミーと映美の物語を自分で創造してゆくことでしょう。

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