シンシア・カドハタ・著『象使いティンの戦争』代田亜香子・訳

象使いティンの戦争 (金原瑞人選オールタイム・ベストYA)                                 

銃声は、とくにめずらしくない。戦争はティンがおぼえているかぎりずっと、つづいていた。ティンが生まれる前はフランス軍がベトナムで戦ってたし、そのあとアメリカ軍がきて、そして出ていった。いまは北ベトナムと南ベトナムが戦っている。

 
この小説は、1973年から1975年のベトナムの中央高地、ジャングルに囲まれたラーデ族の村が舞台です。
主人公ティンは11歳、象使いを目指していますが両親はまだ認めてくれません。
 

母さんがティンを学校にいかせたがったのは、そのうち街へ出られるようにするためだ。「そうすれば、もっといい暮らしができるわよ」母さんはよくいっていた。

 
父親は農夫ですがアメリカの特殊部隊の作戦に協力しています。
 
もう1人(頭?)の主人公は象のレディです。
ティンの村には飼われている象が3頭います。レディはそのうちの1頭で、ティンが担当になります。
この小説は、象の個性を他の登場人物と同じように描いていて、象が愛おしくなります。
 
この小説で描かれるベトナム戦争は、アメリカ軍が撤退した後、ベトナム人同士で戦われた戦争です。
 

毎日村の人たちは自分の畑に出てはたらく。まるで戦争なんか起きてないみたいだ。最後のアメリカ兵がベトナムから撤退したのは1973年で、そのあともふつうの生活がつづいていた。父さんは愛するたばこ畑ではたらいていたし、ティンも学校に通いながらレディの世話をしていた。ティンは、北ベトナム軍とベトコン(南ベトナムの反政府ゲリラ)は自分たちの村には手を出さないだろうと想像していた。ぼくたちの部族はきっと、このまま中央高地にいられるだろう。もう何百年も、いや、何千年かもしれないけど、暮らしてきたこの土地に。

 
私はこの小説を、象との交流を通した少年の成長物語だと勝手に決めつけて読み始めました。
ジャングル、そして象という、エキゾチックな設定がなければ、家族や友人たちとの交流、学校での勉強の退屈さなど、どこにでもある話しです。遠くで聞こえる銃声も、それはそれで外部世界とのつながりを示すひとつの仕掛け程度に思って読み進めました。
しかし、突然虚を突かれてティンと一緒に戦争の渦中に投げこまれてしまいました。
それまでのティンの目を通した牧歌的な村の生活風景から一変して、通勤電車で読むにはあまりにも重い内容になってゆきます。
 
ティンは、アメリカ撤退以前の戦争についてこう言います。
 

アメリカ人がベトナム戦争と呼び、父さんがアメリカ戦争と呼ぶ戦争

 
アメリカ人が撤退した後こそ、ベトナム人にとって本当のベトナム戦争であったという事実は、私にとって大変な驚きでした。
 
ティンは象と友人達とジャングルの中を逃げます。
そんな中で先輩の象使いや親友とぶつかりあいます。それはある意味イニシエーションではあるのですが、人間同士の殺しあいの中での、痛ましく悲しい成長です。作者は安易な和解を用意していません。
 
戦争という不合理で理不尽な状況下でも、人は信頼もすれば時として行き違い、それは平常時であっても起こりうることで、ただ、極限の状況下においては、その人の素の部分が激しく顕在化しやすい。
 
ティンは14歳にしては過剰な分別を身に付けざるを得ないようです。
それはラストに描かれる、ティンとレディの関係に凝縮されてゆきます。
 

ぼくの未来は、ぼくの愛する国の中にはない。なんてひどいことなんだろう。だけど、それが戦争だ。

 
この小説の原タイトルは『A Million shades of Gray』となっています。2、3メートル先しか見通せないジャングルを凝視して、幾重にも塗り込められた灰色といったような表現が何箇所か出てきます。
私は、ベトナム戦争というとべトコンと戦ったアメリカ軍のことしか想像ができませんでした。それも、ハリウッドスタ一が演じる…。
しかし、本書の作者、シンシア・カドハタという米国人作家によって、灰色に閉ざされたジャングル向こうで、本当は何が起きていたのか、どのように人が死に、どのように少年が大人になったのか、知る機会を得ることができました。
大変貴重な読書体験となりました。

本書は「金原瑞人選オールタイム・ベストYA」というシリーズの一編として刊行されたものですが、ヤングアダルト小説という一群の多くがそうであるように、この小説も、大人が読んで心にずしりとくるものでした。
ティンと私が同年代ということを考えると、さらに重く心に残るものを感じます。
 
「ティンのその後が見てみたい」
私の16歳の娘の感想です。

【みなさんの感想】
おいしい本箱様の感想
http://oishiihonbako.jp/wordpress/ya/1107/

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大江健三郎・著『芽むしり仔撃ち』

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)                                 

 

人殺しの時代だった。永い洪水のように戦争が集団的な狂気を、人間の情念の襞ひだに、躰のあらゆる隅ずみ、森、街路、空に氾濫させていた。

 
そんな戦時中、感化院の少年達、つまり問題があって保護されている少年達、もっと言えば、矯正中の不良少年達が、地方に集団疎開するお話です。
 
冒頭、疎開先への移動中に脱走した2人の少年達が捕まるところから始まります。
2人の少年は沿道の村の百姓につかまり、傷だらけにされています。
感化院の教官は、少年達を集めてこう言います。
 

「こんな奥の村へ入って来たら、どこへ逃げても町へ着くまでに百姓につかまってしまう。あいつらときたら、お前たちを疫病みたいに嫌っている。殺しかねない。お前たちは刑務所にいるより脱走しにくいんだ」

 
空襲の激化に伴い院児の親元への引きとりが要請されたにもかかわらず、引き取り手のあられわれなかった子供達が、集団疎開することになったのでした。
つまり彼らは、親から見捨てられ、社会からも爪弾きにされた存在だったのです。
 
小さな村落共同体は彼らをあからさまに敵視し、疫病扱いして受け入れてくれません。
ようやく、深い谷を挟んで山のこちら側とあちら側をトロッコで結ぶ村に受け入れられるのですが、その村ではまさに疫病が発生していたのです。
 
少年達が村に到着すると、教官は後発隊を迎えに行きます。
教官が去ると、村は少年達にある作業をさせます。
川原に積まれた動物達の死骸の埋葬です。
 
翌日、村人達は村から全員退去します。感化院の少年達を見捨てて。少年達は疫病の猖獗する閉ざされた村に残されたのです。
村外に通じる唯一の連絡手段であるトロッコは閉鎖れています。向こう側に見張りを置く用心深さで。
 
子供達だけで取り残されたことに彼らははじめ戸惑いますが、村人の家に侵入して食物と寝所を手に入れ、父親の埋葬のために残った朝鮮人の少年と脱走兵が村に加わり、一夜にして降り積もった雪にはしゃぎ、朝鮮人の少年から教わった狩りに熱中し、絶望的に追いつめられた状況の中でひとときの自由を得ます。
 

「戦争が終わるまでのほんの短い間、俺は隠れていればいいんだ。」と脱走兵の声は祈りのように熱っぽかった。「国が降伏しさえすれば、俺は自由になる」

「あんたは今だって自由じゃないか。この村の中でなら何をしてもいい、どこに寝ころんでもいても誰一人あんたを掴まえない」と僕はいった。「すごく自由だろ?」

「俺も君たちも、まだ自由じゃない」と兵士はいった。「俺たちは閉じこめられている」

「村の外のことを考えるな、だまっていてくれ」と僕は怒りにかられていった。「俺たちはこの村の中で何でもできるんだ、外のあいつらのことをいうな」

 
5日ほどして村人達が帰ってきます。
兵士はとらえられ、そしておそらくは村人達によって殺されます。疫病の中に子供達を残した事実を、外の世界に知られたくないために。
そして少年達にも、硬くロを閉ざすよう要求するのですが、主人公だけは拒否します。
 

僕らはうまくはめこまれようとしていたのだ。そして《はめこまれる》ことほど屈辱的でのろくさでみっともないことはないのだ。

 
この小説が書かれたのは昭和33年です。
私達は、兵士のいうとおり、国が降伏して戦争に負けたことを知っています。
しかし、それで果たして私達は自由になれたのでしょうか?
 
戦争の狂気が国の隅ずみを覆っていたのは確かです。しかし、絶望的な閉塞状況でしか自由を手に入れることができないとするなら、それは私達の内に潜む偏狭さと不寛容と、集団的なエゴイズムのせいではないか。戦争とはまさにその発露であって、戦争がなければよかった、あるいは疫病が悪かった、というのは本質から目をそむけることに。これでは人間は同じことをくりかえす。
 
主人公は最後山に放たれ、村人達に追われますが、それこそ行き場のない現代の状況を表わしてはいないでしょうか?
 

僕は閉じこめられていたどんづまりから、外へ追放されようとしていた。しかし、外側でも僕はあいかわらず閉じこめられているだうう。脱出してしまうことはできない。内側でも外側でも僕をひねりつぶし締めつけるための硬い指、荒々しい腕は根気よく待ちうけているのだ。

 
私達は長く、少年を追いつづけているのではないか?自己防衛という名の自滅に向かって…。

 

 

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本谷有希子・著『嵐のピクニック』

嵐のピクニック                                 

残念なのは、長編でないことです。
中味を確認せずに読み始めるのは私の悪い癖なのですが、私はこの本を長編だと思って読みはじめました。
 
第1話の「アウトサイド」は中学生の女の子の一人称で小気味よく語られます。
この第1話を読んでいる間中長編であると思い続け、今後の転開にゾクゾクしていたのです。
そして第1話の最終ページで主人公が17歳になって妊娠をして、という性急な転開でようやくこれが短編だと気付いたのです。
 
できれば連作であって欲しいと願いましたが、本書は13の独立した短編から成ります。
 
短編というよりは、ある意味ショートショートといった趣を感じさせます。
 
例えば、「マゴッチギャオの夜、いつも通り」は、動物園のサル山に入れられたチンパンジーの話し、「タイフーン」は台風の日に傘をさして空を飛ぶことに挑戦する人の話し、といったように、ユーモアと意外なオチが連想され、実際読み物としてどれも面白いのです。
 
でもこの本をショートショート集として読むのは誤りです。
 
「哀しみのウェイトトレーニー」は、純朴な妻が、卑屈な幼稚さの残る夫に内緒でボディービルダーになる話しで、その設定はショ一トショ一ト的に意表を突いているのですが、
 ボティービルのポージングで作る笑顔について主人公はコーチに向かってこんなことを言います。

そうやっていつも笑っていると、自分の本当の気持ちが分からなくなりませんか。本当は泣きたいほど哀しいのに笑うなんて、人間として正しいことでしょうか。私は、私はこんなことならもっといろんな表情を夫に見せておけばよかった。私には彼が知らない、もっと豊かな内面があるのに

 
私は作家がどのように小説を書くか知りませんが、このような長編小説のエッセンスのようなものが随所に配置されているのです。
 
第1話の「アウトサイド」に戻りますが、ピアノ教室に嫌々通わされる中学生が、ピアノ教師の気まぐれか、計略か、或いはもっと悪意ある動機からか、ちょっとした練習からピアノの練習に打ち込むようになり、それまでの安直で怠惰な、そして放縦な遊びに興味をなくす話と、それと平行して、ピアノ教師が直面していた生活の重石とその結果としての悲惨な事件が、実に少ない頁数でコンパクトに描かれ、主人公の今後の行く末を、本当にゾクゾクしながら期待したのですが、返す返すも長編でないのが残念です。
 
でも、全てを読み終えたあと、もう一度ぱらぱらとめくってみてると、どの作品も頁数以上の広がりを持っていて、書かれなかった長編の余韻を想像の中で楽しむことができます。

13の仮想長編集です。
【みなさんの感想】
Dobjectdesign様の感想
私的図書室(恵)様の感想
立宮翔太様の感想

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