きょう、ママンが死んだ。
でも、このすごさに気づくのは、最後まで読み終わって、もう一度ここに戻ったときです。
「その日」とか「あの時」とかではなく、「きょう」なのです。
一人の男が殺人を犯し、ギロチンによる死刑を宣告される、簡単に言ってしまうとそんな話しです。
しかし、1度読み終わって冒頭に戻ると、無間地獄のような時間のループの中に投げ出されてしまいます。
主人公が死刑になったとするなら、この小説は死後の回想でしょうか?
それとも特赦を受けて死刑にならずにすんだのでしようか?
しかし、だとするなら、なぜ「きょう、ママンが死んだ」となるのでしょうか?
そもそもこれが回想でないとするなら…。
主人公は母の死から死刑判決までの、どこで間違ったのか?
主人公は独房の中で、母の葬儀のとき看護婦が言った言葉を思い出します。
「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします。」と彼女はいった。彼女は正しい。逃げ道はないのだ。
母の死に際し、彼は無感覚です。冷酷というわけではありません。ただ、習慣の要求する感情の表出とは無縁なだけです。
主人公は、虚無というほど殺伐とした心象風景を持っているわけではありません。ただ、自分から判断して行動することを全て放棄しているようです。
恋人があり、結婚したいと言われます。
私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。
私に対しては、彼は大層やさしいように思われた。これは楽しいひとときだ、と私は考えた。
太陽のせいだ
このセリフによって全てが決まったと言えるでしょう。
裁判長も証人も傍聴者も検事も弁護人さえも、理解し難さを感じ、救済不能を見てとり、それと同時に被告に興味を失った瞬間です。
人々は、殺人に、怒りや憎悪、義理や恐怖心といったわかりやすい理由を求め、そうでないものに対して冷酷です。
一体、異邦人とは誰なのか。殺されたアラビア人でしょうか?アルジェリアの地において、異邦人とは何人を指すのか。
習慣と馴染まず、人と馴染まず、さらに今、衆人に見放されてギロチン台に乗せられようとしている主人公こそが、完全に個として立った異邦人になり得たのではないでしょうか。
私ははじめて、世界のやさしい無関心に、心を開いた
だから、
何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない
私はかつて正しかったし、今もなお正しい。
私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。
この生という名の不条理なくびきを、全的に、それはつまり、習慣や信仰の力を借りずに、肯定するためには、1人1人が社会的、或いは精神的な異邦人となって、たとえそれが人々の憎悪の対象となるのだとしても、完全な孤独の中でそこにしあわせを感じること…そんな生き方、できるでしょうか?
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