椰月美智子・著『その青の、その先の、』

その青の、その先の、                                

年をとると涙もろくなるようで、後半3分の1くらいは、ところどころ涙腺がゆるんで、鼻の奥がツンとしました。
 
といって、感動的な物語が大きく展開するわけではありません。
むしろ日常がちょっと大きくうねるといった感じでしょうか?
もちろん、後半に発生する事故が、私や私の近親者に起きれば、まちがいなく人生における大きな事件だし悲劇となるのは間違いありません。
 
何か不幸な出来事があったとして、それが自分に近しい人に起こったものだったとして、私達はかける言葉もなく無力で、無力であることに傷つき、またそのことに嫌悪する…。優しさとは、このように多分に個人的で内省的なもののようです。
主人公もその友達もみな傷つくのです。
そしてそのように傷つく娘にその父もまた胸を痛めるのです。
 

「がんばれって言葉、今はあんまり使っちゃいけないみたいだけど、お父さんは、がんばれって言葉好きだよ。亮司くんにもまひるにもがんばってほしい」

 
主人公はまひるという高ニの女子生徒。
 

中学時代の、あの怨念のような己に対する嫌悪感、他者に対しての怒りや拒絶感は息をひそめ、高校に入学したと同時にクラス内に出来上がったヒエラルキーももはや気にならなくなり、ようやく気分的に落ち着いてたのしくなってきた高校生活二年目の秋。

 
物語はまひるを含めた仲良しグループ4人と、まひるの彼氏の亮司とその友達を中心に語られます。
 
バイクの免許やバイトや文化祭、クラスメ一トの妊娠などを織り込んで、まひるの日常が綴られてゆきます。
それだけと言ってしまえばそれだけなのですが、まひるの内面だけに拘泥しない、作者の広く深い視線が随所に感じられ、決して平板ではない、むしろ味わい深い小説となっています。
 
例えばこんなシーンです。
大雪となった日、まひるは和菓子屋でバイトをしています。その店先に、雪のために定時退社となった父親が、まひるのレインブーツを持って現れます。
 

「お父さん今日は早かったんだね」「ああ、定時で会社出たのなんて何年ぶりかなあ。悠斗が生まれたとき以来かな」

 
悠斗はまひるの弟です。
何気ないやりとりですが、父親の人となりや、家族の17年余が凝縮されているようで、涙腺のゆるんだ年寄りは…。
 
何気ない日常に泣けてしまうというのは、いったいどういうことでしょうか…?
朝の通勤電車で何度も鼻の奥をツンとさせていたわけですが、本当に大切なものは日常の中にこそあって、普段私達は気にかけていないし、気にかけていないからこそ純粋で、そして素朴にかけがえなくそこにあるのだと思います。
 
主人公は女性のホームレスを度々見かけます。軽侮の意味を込めて弟と密かにあだ名を付けて呼んでいるのですが、徐々に見方を変えてゆきます。
 

人間はひとりひとり全員違って、その人だけの人生を生きている。計り知れない宇宙をみんなが持っている。

 
ホームレスの人生も、父親の人生も、友人や恋人、そして自分の人生も、全て同じ地平にあることに気づきます。
 
最後、まひるは1人で海に行きます。雨が降る5月の土曜日です。
 

まひるは目を閉じて、雨が上がって雲が流れてゆくイメージを思い浮かべる。

 
17歳とは、人生においてまさに雨の5月、そんな1日なのかもしれません。
そして、家族や友達との関わりの中にあっても、成長するときは、そんな1人の時間なのだと思います。
人生を踏み出す一瞬前の少女のときが、鮮やかに描かれています。

 



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大島真寿美・著『三月』

三月                                

小説は6章に分かれていると言ってもいいし、6つの短編の連作と言ってもいいと思います。
 
登場人物は6人。現在40歳の女性違がそれぞれの章の主人公です。6人は短大の同窓です。
 
6人のほかに、殊更重要なのは、20年前に20代で亡くなったダンサー志望だった男友達です。
 
ノンは領子に電話をかけます。最近、その男性のことを思い出すのだと。自分が先入観から自殺と言ってしまったがために、その死は自殺としてみんなの意識の中に定着してしまったのではないか、と20年経って急ににソワソワしだしたのです。
 
20年前の男友達のひとりの死、領子にとって、それはどうでもいい話。
領子はいま失業中です。40になり、独身、付き合ってる人もいません。
ノンからの電話は要領を得ないものでしたが、一人身かつ失業中の身の軽さ、そして、ノンの言葉に何やら複雑な思いのあるらしいことを察し、東北に嫁いだ彼女に会いに行く約束をします。
 
このようにして、一人の青年の死をひとつのキーに、短大時代の友達が連鎖的に連絡を取り合って、3月のある日東北の海沿いの町で再会をするのです。
 
2011年3月11日、40歳の短大時代の友達5人が旧交を温めます。
 
そう、それはあの日だったのです。
『三月』という題の意味のひとつは、そこにあったのです。
 
屈託なく笑い合えた日から20年、それぞれが心に屈託を抱えています。
卒業してから会わずにきたこの20年、彼女たちは再び集まり、死とすれすれの一日を挟んでそれぞれの場所に帰ってゆきます。
それはまったく新しい出発であったり、再出発であったり、それぞれの人生にそれぞれあたらしい意味を付加します。
 
最後に、『遠くの涙』という章が設けられています。短大卒業後アメリカに渡った友人美晴の挿話です。
私は、これがタイトル章であってもいいと思いました。
 
3.11の震災時の経過は、アメリカにいる美晴の描写をもって語られます。
遠く異国の地にあって、情報が断片的であるがゆえに成功者として語られることの多い美晴にも、それぞれが抱えるのとさして違いはない、不如意の屈託があります。
 
20年という時間は、短かくはありませんが、20歳の頃想像していたよりははるかに短かいし、また同時にはるかに多くの変化を人の上にもたらすものです。
残念ながら20歳ではそれがわかりません。
20歳の頃に戻りたいとは思いませんが、その年月の長短軽重を20歳の自分自身に教えてやりたくなります。
 
人生80年という時代、40歳から私達は生き直すことは可能でしょうか?
過去の20年を省みたとき、自ずとその答えが出るのかもしれません。
 
主人公達は、20歳の頃の友達と再会することで、20歳の頃の自分と出会います。
そうして思うようにならなかった20年を受け入れることができたのだと思います。
 
20代で亡くなった友達、40歳で経験した震災。主人公の1人は阪神・淡路大震災も経験しています。
 

生きるとはこれほど難しいことだったのか

 
それが20年の漂泊の末に行き尽くところだとしても、それでも
 

みんなそれぞれ、その人なりの道を歩いている

 
そう思えることで、自分の人生もまたいとおしく思える、それでいいんだと思えること、それが、40年の人生の重み、その価値なのかもしれません。

 



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小林多喜二・著『蟹エ船』

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)                                 

主人公はいません。敢えて言えば、そして有り体に言えば、主人公は労働者です。
 
巨大資本に隷属させられ、搾取され、法の枠組みからも、社会の枠組みからさえも隔絶された、オホーツク海上の蟹工船の労働者達。
 
蟹工船とは、蟹漁をしながら船上で蟹の缶詰を作る船のことです。
 
物語は、出港前の様子から始まります。
船には、船員、漁夫、工員、雑夫が乗り込み、棚を寝床にした大部屋に押し込まれます。
これらが労働者であり、船長と、蟹加工を総括する監督が資本側の力を代弁します。
 
逃げることのできない海上での
劣悪な生活環境、強いられる過酷な作業、労働者達は体を壊してさえ休むことを許されません。
資本は過大なリターンを求めるからです。
 
極限状態で労働者は団結します。しかし抵抗は軍隊の介入で失敗に終わります。
この失敗体験は、却って労働者達を賢くさせます。
国も軍隊も資本の側にあって、自分達に味方のいないことを学習します。
 
作中、ほとんど個人名は出て来ないのですが、監督の浅川だけはその名が人物像と共に大きく印象に残ります。
 
労働者の敵は資本であり、社会の搾取構造であり、資本により大きく与する国家なのですが、その資本の力を体現する存在として、浅川が存在します。
 
船上の労働者達は一義的には浅川と対決しなければなりません。しかし、浅川への勝利が、本当の意味での勝利でも、救済でもありません。
 
それは、本船が帰港してから、一連の争議の責任から会社に解雇された浅川が叫んだとされる言葉が示しています。
 

あーあ、口惜しかった!俺ア今迄、畜生、だまされていた!

 
本作は、ツリ一状の社会階層の下層に位置する者達の非人間的な扱われ方を糾弾する作品であることは間違いないでしょう。
しかし、それと同時に、組織の看板を背負うことで、人は他者に対してどこまでも非情で苛烈な要求をすることができるようになるという、人間存在への不信を、私は見せられた気がするのです。
 
そして、労働者の団結によって、労働環境や条件を改善できたとしても、
結局すべての組織が官僚化するとして、
政党や組合も例外でないとするなら、
蟹エ船の問題はブ一メランのように私たちひとりひとりの上に戻ってきて、
今私たちは組織と個の自立性ということについて改めて考えなければならない時代にあると言えるのではないでしょうか。

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