池澤夏樹・著『アトミック・ボックス』




アトミック・ボックス 

 

読み終わるまで知らなかったのですが、この小説は2012年9月16日から2013年7月20日まで毎日新聞の朝刊に連載された新聞小説ということです。

 
「爆弾は簡単だ」と金田はまた声をひそめて言った。「じっと待っていていざという時に爆発すればそれでいいんだから。保管時に暴発さえしなければそれはよい原爆だ」

 
「ずっと運転し続ける発電所に比べたら、出番を待って眠ったままの爆弾の方が作る方が気が楽さ」

 
原爆と原発の偽悪趣味的な比較です。
 
3.11以降、原発の問題が日々の新聞に載らない日はないと言っても過言ではないと思うのですが、そのような日々にあって、紙面の一隅にこのような言葉が書き連ねられていたことに、少しく驚きを感じました。
先の言葉を現実の誰かが公言したとして、ツイッターで無名の誰かならタイムラインは炎上していることでしょう。著名人の言葉ならマスコミが喜んで大騒ぎしてくれることでしょう。
 
池澤夏樹は作家としてもっとも適当な方法で、核の問題に取り組んだのだと思います。
それは当たり前のことなのですが、作家にかかわらず、私達は今いるこの場所でできることを考えるのことが大切なのではないでしょうか、影響の大小に関わらず…?
原発に賛成であるにせよ反対であるにせよ、大きな声の人達には距離を感じます。また、一点の主張の肯定をもって、その存在の全的な信頼というのも危なっかしい気がします。
 
物語は一人の漁師の死から始まります。
漁師は娘に一枚のCDを託します。
そのCDには、かつて日本で行われた原爆製造の証拠のデータが収められているというのです。
漁師は若い頃、その極秘の原爆国産化計画に技術者として関わっていたのです。
その計画は情報漏洩をきっかけに破綻したようですが、関わった者達には口止め料的な年金の支給と監視の目がつくことになりました。
漁師はその計画の破綻後、自分が広島の原爆の胎内被爆者であることを知ります。

 
体内に残った放射能が時限爆弾のように思われた。チクタクと時を刻んでいる。

 
被爆者である自分が原爆製造に関わっていた事実に彼は衝撃を受け、会社を辞めて広島の凪島という島に戻って漁師になります。
しかし、自分の知識そのものが極秘の国家プロジェクトの機密情報ですから、場合によっては身に危険が迫ります。そこで保険として情報データが手中にあることをプロジェクト側に示し身の保全をはかってきたのです。
 
そのデータを、自分の死に際し娘に預けたのです。
公開するか、相手におとなしく返却するか。
 
娘美汐は、父の遺書にあった事実を知る人物に会いにゆくことにしますが、既に相手は公安警察を使ってデータの奪還に動きます。
そしてなんと、島の郵便局員行田が公安の警察官で、ずっと美汐の父を見張っていたのでした。
 
この小説は、広島の凪島から東京までの逃走劇になっているのです。
監視カメラや防犯カメラがあちこちにある現代、このような逃走劇は成立しにくくなっています。
この小説は、一面、瀬戸内の海洋小説、或いは島嶼小説(?)となっています。
美汐は島を渡って逃走するのです。
 
島には監視カメラがないというストーリー上の利点があったのかもしれませんが、それ以上に、私達の視点を地方の、更にその周辺域に向けさせる意図が作者にあるような気がします。
美汐は社会学者で島の老人の生活について調べたことがあり、そのツテを頼って逃走するのです。
 
最終的には美汐は東京に往き着くのですが、物語を東京でなく瀬戸内の島から始め、島伝いに逃走するストーリーにしたことは、監視カメラの制約という以上に、作者の狙いを感じます。
政治とか行政には、どうしてもその仕組み上「中心」が存在し、その中心の理屈を以て周辺に波及させようとする力が働きます。
しかし、人々の中心はそれぞれの人の生活の中にこそあるのです。
都会で生活していると、そんなことすらわからなくなり、自分の生活すら都会という中心らしきものの中に埋めこまれたひとつの機能にしか見えなくなってしまいます。
人間らしさという言葉は、都会で生きる人だって人間なのだからあまり使いたくありませんが、生きている実感としての生活らしさは、地方の更にその周辺域に行けば行くほど強くなるようです。
私達は都市生活のためにそのような場所に原発を建てた…そのような批判はもっともなことだと思います。
 
島から東京への逃走というのは、監視カメラの目を逃れることはできても、島そのものが袋小路ですから、寧ろストーリーに制約を与えてしまいます。
おそらく読者は最初から行き詰まり感を覚えると思います。
美汐は年齢も性別も職業もまちまちな友人達に助けられ、警視庁の公安課の行田や所轄署の警察官等を振り切り、なんとか東京に往き着きます。
島から東京への行きづらさと行き詰まり感は、そのまま地方の声の中央への届きにくさと諦めを意味しているように感じます。
また、縦割りの行政機構に対し、私達が武器とするのは水平の人のつながりである、と言っているように思えました。
 
物語の最後に、公安の行田が登場します。美汐ではないのです。
双頭の船』では人々を乗せたフェリーが大地となって終わりました。
生活の中にこそ希望があり、私達はいつでもそこから未来を生きてゆけるのだ、それしかないのだと言っているような気がしました。

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魯迅・著『阿Q正伝』




故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) 

 

作者は一人の人物を創作します。
当然です。小説ですから。
 
阿Qという主人公です。
阿Qという人物の「正伝 」 であることを第一章で述べています。
 
小説ではなく、一人の人物の評伝という形にしたいようです。

 
従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えられる。
 

しかし、阿Qという人物は偉人でも英雄でもありません。
 
そうかといって、ある社会階層の平均的な人物では全くありません。

 
阿Qは家が無い。未荘の土穀祠の中に住んでいて一定の職業もないが、人に頼まれると日傭取になって、麦をひけと言われれば麦をひき、末を搗けと言われれば末を搗き、船を漕げと言われれば船を漕ぐ
 

どうやら阿Qは社会階層の末端に位置しているようですが、本人にその意識はなく、本人にその意識がないのだから、阿Qはどの階層にも属していない、と言えるでしょう。
 

阿Qはまた大層己惚れが強く、未荘の人などはてんで彼の眼中にない
 

そうして村の者と喧嘩をしては懲らしめられるのですが

 
乃公は自ら軽んじ自ら賤しむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ

 
大層おかしな理屈ですが、そのように考えて精神のバランスを保っているようです。
 
私達は、たとえそれが負け惜しみでも、そしてそれが負け惜しみとわかっていても、そのように自分を慰めなければ、外形的な惨めさと内面の自尊心の均衡を保つことはできないのでしょう。
 
阿Qは家もなく社会階層からも外れた男ですが、自由であるかというと、彼ほど社会の習俗や掟に縛られ、身動きの取れない人間はいないのではないでしょうか?
 
まさにそこに、魯迅が阿Qを創出した理由があると思わわます。
 
第四章の「恋愛の悲劇」では、阿Qが下働きをするある富裕な家で働く女に、阿Qが懸想して言いよるのですが、あり得ないこととして阿Qは村民から排斥されます。
やむなく地元を離れ「城内」で働くのですが、少々盗みなどもしたようです。
阿Qは少々の蓄えと盗品の現物を持って地元に帰還します。
すると村の金のある者は、阿Qがなぜそれを持っているか詮索することなく、安く手に入れようと、阿Qと交渉します。
全く現金なものです。
 
第七章では革命が起こります。政治思想などは一切語られません。人々の関心はどちらに付けば自分の財産を守れるか、ということのようです。ですから、それが革命でなく、王朝の交替でもよく、たまたま阿Qの時代にそのような政変があり、そのような政変は富の移転を伴うもので人々はもっぱら自分の財産を失わず、できれば勝ち馬に乗りたいと考えています。
阿Qもまた、ここぞとばかり革命に参加していることを匂わせ、社会に自分の位置を得ようと考えます。
 
阿Qを襲う悲劇は、阿Qの身の内に起因するものではありません。
阿Qは己惚れが強く意味もなく尊大で、愛されるべき善良さもありません。
しかし、だからといってその結果と周囲の反応にも、何か心にザラついた感じを残します。
 
阿Qの中にも、また登場人物のどのー人にも、良心や善良さといったものが感じられません。
皆損得勘定と打算でしか動いていないように見えるのです。
 
世の中をそんな風にしか見れないとしたら寂しいことだと思うのですが、魯迅は、きっとそのことを書きたかったのだと思うのです。
 
人には良心というものがある。しかし、作中にそれを一切描かないことによって、私達の中にある良心に訴えかけているのではないでしようか?
 
阿Qは言わば人間の負の側面。阿Qを追い込んだものもまた。
人間はそのように負のスパイラルにはまり込んでゆくものなのか。
この小説に希望は一切ありません。しかし、今なおこうして読み継がれていることが、魯迅が作中に描かなかった、人間の希望の小さな証しではないかと思うのです。

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小川洋子、クラフト・エヴィング商會・著『注文の多い注文書』




注文の多い注文書 (単行本) 

その街区は都会の中の引き出しの奥のようなところにありました。

 

表紙を開くと、まず一文書かれています。
目次よりも先です。

 
小川洋子がクラフト・エヴィング商會をたずねてゆくところのようです。
 

見れば、その看板には「ないものあります」なる謳い文句。
創業は明治で、「舶来の品および古今東西より仕入れた不思議の品の販売」と謳い文句は続いています。

 
小川洋子がクラフト・エヴィング商會に何か注文に来たようです。
 

「じつは、昔、読んだ本に出てきたものなんですが――」

 
このあと目次が続きます。
5つの話があります。
クラフト・エヴィング商會への注文書と、納品書、そして受領書という形式になっています。
注文書と受領書は小川洋子が、納品書はクラフト・エヴィング商會が書いているようです。
 
本好きが、表紙から1枚1枚めくって、本作りの人達の凝らしたささやかな意匠も見逃すまいとする、そんな気持ちを大切にすくい取ろうとする姿勢が、表紙から目次を読む間までに伝わってきます。
 
各話とも源泉とする小説があるようです。
 
小説を読む、ということは、ないものをあるものとして胸にしまうこと、だとするなら、ひょっとしてその小説にはまだ見つかっていない「ないもの」があるのではないか…?
 
私のような市井の勤め人が、読書感想文を書いてネット上で発表する時代ですが、本当の「ないもの」が、まだ発見されていないのではないか?
小説を読んで書評を確認して、それでその本を理解した気になっているけど、まだ「ないもの」がどこかに隠れているのではないか、それをこの現実の生活の中で深し続けるのが読書の楽しみなのでは…
小川洋子にそのように言われた気がするのです。
 
書評やら感想文やらがネット上にあふれている時代に、小説を書くことを生業としている者が、小説について語るとき、本書のような構造が必要になったのでしょうか
 
小説を読むということはまた、構造の中に吸い込まれること、小川洋子が吸い込まれた構造の中に、もうひとつ小川洋子が構造を作って、私達をまんまと吸い込んでゆきます。このしてやられた感がなんとも心地よいのです。
 
小川洋子のしかける虚構の設定に、クラフト・エヴィング商會が即物的に答えを探してきます。
 
源泉とする小説を入れ子としているのか、既存の小説の中に小川洋子が虚構を入れ子にしているのか、自分が今座っている通勤電車が虚構なのか、虚構の中を通勤電車が走っているのか、読んでいるうちに自信がなくなります。
 
一服の清涼剤という表現がありますが、この本は通勤読書家にとって一服の幻覚剤と言えるでしょう。行き着いた場所は、昨日と同じ場所でしょうか…?

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