大島真寿美・著『三月』

三月                                

小説は6章に分かれていると言ってもいいし、6つの短編の連作と言ってもいいと思います。
 
登場人物は6人。現在40歳の女性違がそれぞれの章の主人公です。6人は短大の同窓です。
 
6人のほかに、殊更重要なのは、20年前に20代で亡くなったダンサー志望だった男友達です。
 
ノンは領子に電話をかけます。最近、その男性のことを思い出すのだと。自分が先入観から自殺と言ってしまったがために、その死は自殺としてみんなの意識の中に定着してしまったのではないか、と20年経って急ににソワソワしだしたのです。
 
20年前の男友達のひとりの死、領子にとって、それはどうでもいい話。
領子はいま失業中です。40になり、独身、付き合ってる人もいません。
ノンからの電話は要領を得ないものでしたが、一人身かつ失業中の身の軽さ、そして、ノンの言葉に何やら複雑な思いのあるらしいことを察し、東北に嫁いだ彼女に会いに行く約束をします。
 
このようにして、一人の青年の死をひとつのキーに、短大時代の友達が連鎖的に連絡を取り合って、3月のある日東北の海沿いの町で再会をするのです。
 
2011年3月11日、40歳の短大時代の友達5人が旧交を温めます。
 
そう、それはあの日だったのです。
『三月』という題の意味のひとつは、そこにあったのです。
 
屈託なく笑い合えた日から20年、それぞれが心に屈託を抱えています。
卒業してから会わずにきたこの20年、彼女たちは再び集まり、死とすれすれの一日を挟んでそれぞれの場所に帰ってゆきます。
それはまったく新しい出発であったり、再出発であったり、それぞれの人生にそれぞれあたらしい意味を付加します。
 
最後に、『遠くの涙』という章が設けられています。短大卒業後アメリカに渡った友人美晴の挿話です。
私は、これがタイトル章であってもいいと思いました。
 
3.11の震災時の経過は、アメリカにいる美晴の描写をもって語られます。
遠く異国の地にあって、情報が断片的であるがゆえに成功者として語られることの多い美晴にも、それぞれが抱えるのとさして違いはない、不如意の屈託があります。
 
20年という時間は、短かくはありませんが、20歳の頃想像していたよりははるかに短かいし、また同時にはるかに多くの変化を人の上にもたらすものです。
残念ながら20歳ではそれがわかりません。
20歳の頃に戻りたいとは思いませんが、その年月の長短軽重を20歳の自分自身に教えてやりたくなります。
 
人生80年という時代、40歳から私達は生き直すことは可能でしょうか?
過去の20年を省みたとき、自ずとその答えが出るのかもしれません。
 
主人公達は、20歳の頃の友達と再会することで、20歳の頃の自分と出会います。
そうして思うようにならなかった20年を受け入れることができたのだと思います。
 
20代で亡くなった友達、40歳で経験した震災。主人公の1人は阪神・淡路大震災も経験しています。
 

生きるとはこれほど難しいことだったのか

 
それが20年の漂泊の末に行き尽くところだとしても、それでも
 

みんなそれぞれ、その人なりの道を歩いている

 
そう思えることで、自分の人生もまたいとおしく思える、それでいいんだと思えること、それが、40年の人生の重み、その価値なのかもしれません。

 



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