小川洋子・著『いつも彼らはどこかに』

いつも彼らはどこかに                                 

小川洋子の短編集で、帯には連作とありますが、8つの短編は全て独立していて、ストーリーや登場人物が重なるということはありません。
それでいて、8つの作品は、同じ何かが通底しているようです。
 
カバーの装丁や帯の宣伝文句を読む限り、動物小説のようです。
しかし、賢明な小川作品ファンなら気づくはずです。小川作品において動物がどのような位置を占めてきたか。
 
例えば『ミーナの行進』のコビトカバ、『猫を抱いて象と泳ぐ』でミイラの肩に乗っていた鳩。
それらが寓話性を高め知らず知らずのうちに 私達を小川ワールドに囲い込んでいたのは間違いありません。
そして更に、私達は檻の中の動物を見るように小説を読んではいても、実は主客逆転して檻の中の動物のように、柵の内側から柵の向こうの不条理を見せられていたのではなかったか。
 
そんな作家が、動物を中心に描くというのですから、読むより先に気持ちが粟立ちます。
 
第1話『帯同馬』はサラブレッドの話しですがサラブレッドは登場しません。
第2話『ビーバーの小枝』ではビーバーがかじった小枝が登場します。
第3話『ハモニカ兎』は看板です。
第4話『目隠しされた小鷺』はたった1枚の絵だけを見に美術館にやって来る老人のお話し。
第5話『愛犬ベネディクト』はブロンズでできたミニチュアの犬です。
そして第6話、『チ一ター準備中』。
ここまで各話を紹介してくると察せられると思うのですが、彼ら、すなわち動物たちはそこにいないのです。
『いつも彼らはどこかに』いるはずなのですが、いまはここにいないのです。そう、この短編集は不在が主人公なのです。
 
動物園の売店のレジ係である『チーター準備中』の主人公は、チータ一の英語の綴りに、その最後に発音されない“H”の文字を発見します。そこにありながら存在しないかのような“H”に主人公はひきつけられ、暇があるとチーター舎の前に来ます。
“H”は主人公にとってかけがえもなく大切なものでありながら、それは同時に、永久の不在を意味する符合なのでした。
 

しかし彼らはもういないのだった。私はいくらでも、いないものについて考えることができるのだった。

 
生と死の間に横たわる大きな不在、忘却もかなわず不在をすくい取るようにしか埋めることができない生の痛みと悲しみ。
 
主人公には、慰めとなるなにものもありません。深く哀しみの底に沈下してゆくほかありません。
今の私達の生を切り取って、これが過不足のない現実なのかもしれません…。
 
寄生虫に触角を蝕まれる蝸牛の第7話を挟み、第8話において、
期せずして不在となったものたちへの鎮魂と、不在をかみしめながも今日を明日へとつないでゆかなければならない、あたかも終わりのない巡礼のような生を営む人々に深々と頭を垂れる作者の姿を見た気がしました。
【みなさんの感想】
Valentine様の感想
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ミーナの行進 (中公文庫) 猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

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2 Responses to 小川洋子・著『いつも彼らはどこかに』

  1. valentine says:

    リンクありがとうございます^^*
    小川洋子さんが動物を描かれると知って、私もざわざわしておりましたが(笑)、
    読んでみてやはりというか、予想を超えて深化した作品群に胸打たれました。。mm
    いまここにあるもの・見えている状況を丹念に描かれる作家さんが多い中で、
    ここに無いものに耳をすませ、想像を尽くして描かれる小川さんは、稀有な方だなと思います…。
    これからも追いたい作家さんの一人です^^

    • aisym says:

      コメントありがとうございます!!

      私は「チーター準備中」を読んで、小川作品ここに極まれり、と思ったのですが、『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだ時も、これこそ小川作品の最高傑作!、と思ったので、この次の作品もぞくぞくする気持ちで待ってます(^_^;)

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