長い長い小説 (全14巻) の第3巻です。
小説全体の構成からいうと、
第2編「花咲く乙女たちのかげに」の第1部「スワン夫人のまわりで」の巻
ということになります。
ようやく3巻目にして小説的な、読み物的な面白さが出てきました。
この巻では、語り手とジルべルトの、幼い恋の始まりからその終わり(?)までが描かれます。
その恋は、公園での陣取り遊びのような、本当に子供らしい遊びから始まります。
やがて、ジルべルトの母親であるスワン夫人のサロンに「私」は出入りを許され、そこで敬愛する作家と出会います。
10代の「私」はそろそろ将来の方向性を決めなければなりません。家族には外交官に、という希望があるようですが、本人は文筆の道にという希望があるようです。
その才能については、まだ文学好きの少年が好きな作家の真似をしているレベルを出ていないのですが、スワン夫人のサロンに出入りすることをもって、周囲はよい影響を期待し、本人はジルベルトと一緒にいられることの安逸さに、外交官も棒に振り、文筆の修行にも身を入れることができません。
「私」とジルベルトは、いわば両家の両親公認の仲になりますが、まだ若く楽しみの多い年頃のジルベルトにあっては、「私」の存在を疎ましく思うことがあり、ジルベルトに決定的に嫌われる事態を回避するために、「私」はジルベルトと二度と会わない決心をします。
こうしてあらすじを書くと平板です。
否、このあらすじを元に、イニシエ一ション小説や青春小説、或いは恋愛小説が書けてしまうのではないでしょうか?
それにもかかわらず、あらすじを書き出すと平板と感じてしまうのは、あらすじを覆い尽くす断片がこれでもかというほどに埋め込まれ、そのひとつひとつが豊穣な比喩に塗り込められているせいでしょう。
その断片とは、登場人物の内面の動きであったり、公園や馬車やドレスといった事物であったり、人と人、あるいは人と物の関係性であったり、言葉の流れに際限がありません。
私達の人生に、ストーリーはありません。あらすじと呼べるようなまとめもできません。あるのはまさに断片です。断片の連続、もしくは重なり合いこそが人生のようです。
登場人物の断片を語り手を中心として可能な限り集積し、人生の、或いは人の世の普遍的なるものを描く本作は、訳者の言う通り、あらすじを追うことには意味がないのかもしれません。
ときに晦渋な文章に難儀し、ときに(往々にして)倦みながら、読み進めてゆくと
だとか
といった、思わずうなずきたくなるような言葉に出会います。
ちりばめられた断片を集めて整理してゆくと、語り手の、或いはスワンの、オデットの、ジルベルトの、その他登場人物達の人生が、 有り体に言うなら、それはあたかもジグソーパズルのように、 読者の頭の中に再構築されてゆきます。ひとつの時代のひとつの都市という、大変な壮大さをもって。
第1巻では何度か挫折しかかりましたが、今では私の貧相な脳に驚くべき時空が広がって、次のピースを待っています。
第2編「花咲く乙女たちのかげに」の第1部「スワン夫人のまわりで」の巻
ということになります。
やがて、ジルべルトの母親であるスワン夫人のサロンに「私」は出入りを許され、そこで敬愛する作家と出会います。
その才能については、まだ文学好きの少年が好きな作家の真似をしているレベルを出ていないのですが、スワン夫人のサロンに出入りすることをもって、周囲はよい影響を期待し、本人はジルベルトと一緒にいられることの安逸さに、外交官も棒に振り、文筆の修行にも身を入れることができません。
否、このあらすじを元に、イニシエ一ション小説や青春小説、或いは恋愛小説が書けてしまうのではないでしょうか?
その断片とは、登場人物の内面の動きであったり、公園や馬車やドレスといった事物であったり、人と人、あるいは人と物の関係性であったり、言葉の流れに際限がありません。
登場人物の断片を語り手を中心として可能な限り集積し、人生の、或いは人の世の普遍的なるものを描く本作は、訳者の言う通り、あらすじを追うことには意味がないのかもしれません。
幸福は、幸福そのものに対して無関心になったときに私たちの手に舞い込んでくる
そもそも人生のさまざまな状況のなかで、 恋愛に関わる出来事を考えたとき、一番いい のは理解しようとしないことだ